「0」を「10」に盛る文化は
「まっとう」な層にも浸透?
「アテンションを得るためであれば、その種火は嘘でもいい」という感覚は、想像を超えて大衆にも広まっているかもしれません。
たとえば就職活動におけるガクチカ(学生時代に力を入れたこと)は、現代も50年前も常に盛られていました。時代時代の空気感で1を10にするくらいに留めておくのか、それとも1を100にすることが是とされるのかは異なりますが、多かれ少なかれ1しか獲得していない実績を、そうと悟らせずにいかにふくらませるかが、就活生の腕の見せどころでした。
ところが、X慣れした学生さんたちは、0を10にし始めました。確かに0→10と1→10の間の「盛った数」に大きな違いがあるわけではありません。しかし何もなかったところに火をおこすのと、もともとあった火元に風を送るのとでは、心理的には大きなハードルがあると思うのですが、Xの流儀を現実に敷衍(ふえん)したと考えるなら、自然な行為にも思えます。
一度この連鎖が始まると、こうした行為が嫌いな人も巻き込まれていきます。
まっとうな人も「自分も盛らないとやばい」と行動を変容させます。Xで存在感を確保するには印象的なエピソードが必要で、そのエピソードはかなり盛られていても信じてもらえます。
裏取りの労は取りたくないので、信じる信じないは印象で決められます。ガクチカはまだ人間の面接官が対面で面接をするなどの抑止力が機能していますが、Xでは綺麗なナラティブで嘘を言った者勝ちの状況です。
Xの特性に精通すれば
多くの人を思い通りに操れる
これは、Xの特性に精通した者は、多くの人間を思い通りに操ることが可能になることを意味します。
少なくとも、誰かが何かをやろうとしていることを止めるのは簡単です。声を上げればいいのです。「誰も見捨てない民主主義」というスローガンとXの相性は抜群です。1人が「私はそれを不快に思う」と主張し、ある程度の理論武装と動員による共感を演出すれば、ある事象や行動をキャンセルさせることができます。
近年はキャンセルの対象がコンテンツではなくコンテキストになっていることにも、留意すべきでしょう。
ある本に差別表現があったとして、その本を回収するのか(コンテンツ)、その著者の本をすべて回収するのか(コンテキスト)には、発想の隔たりがあります。倫理を問う対象が作品から人格へと拡張しています。







