校歌の作詞を手掛けたのは
小説家の幸田露伴

 墨田川高校は、戦後の学制改革の過程で、男女共学の新制高校となった。2000年から進学重視型単位制に改編され、多様な選択科目が用意されている。

「文武不岐」の精神を、基本的スタンスとしている。教育目標として「知性」「創造」「自主」を掲げている。

 1925年制定の校歌が自慢だ。作詞は小説家・随筆家の幸田露伴(東京府第一中学正則科・現都立日比谷高校卒)。作曲は、多くの童謡を作った弘田龍太郎(三重県立第一中学・現津高校卒)だ。

 露伴は1897年から1923年まで向島に住み、作家活動を続けていた。その旧居「蝸牛庵」は愛知県犬山市の「博物館明治村」に移築され、一般に公開されている。七中の初代校長が、露伴に頼んで校歌を作詞してもらった。三顧の礼ならず四度目の訪問で露伴を口説き落としたという。

 23年の関東大震災では生徒の6割が被災した。45年5月の東京大空襲では全校舎が消失し、新校舎落成まで都内の高校を転々とした。「下町」の不遇を味わっている。

 都立高校は67年度から実施された学校群制度によって、日比谷高校(旧制府立一中)を筆頭とするかつてのナンバースクールの大学合格実績は、低迷した。

 墨田川高校は、複雑な経緯をたどった。学校群制度が実施された後の数年間の大学入試実績は好転したのだ。

 東京大への合格者は年10人を超え、国公立大合格者は2ケタ台から73年度などは152人にハネ上がった。都立両国高校(旧制府立三中)などと同じ「群」になったためだ。

 首都圏では6年制の私立中高校の台頭が目覚ましく、両国高校と共に墨田川高校の進学実績はその後、急落していった。平成時代になっても低迷が続いた。

 しかし、朝学習や夏期講習などを拡充し、生徒の皆勤率の向上などに努めた結果、4年制大学への現役進学率は年々、向上している。

 25年春の大学合格実績(25年4月入学)は、現役・浪人合わせ、東京都立大4人、東京学芸大3人など国公立大合格者は計23人だった。私立大には、明治大29人、法政大30人などだ。