「日本人が英語を話せないのは、国力があるから」って本当?日本の英語力の“立ち位置”『ドラゴン桜2』(c)三田紀房/コルク

三田紀房の受験マンガ『ドラゴン桜2』を題材に、現役東大生(文科二類)の土田淳真が教育と受験の今を読み解く連載「ドラゴン桜2で学ぶホンネの教育論」。第129話は、“ツール”としての英語について考える。

「日本人が英語を話せないのは…」

 東京大学現役合格を目指す龍山高校の生徒の前に、英語の特別教師・鍋明美が激励に訪れる。東大英語の英作文にひそむ「表現力」の重要性について説明するのだった。

 1年ほど前、このコラムで日本人よりも東南アジアの高校生の方が英語を積極的に喋る、と書かせていただいた。多くの反響をいただいたのだが、その中で私が気になったのは、以下のようなコメントだ。

「日本人が英語を話せないのは、英語を使わなくても十分に生活できるほど国力があるからだ」
「だから、英語が話せないことは悪いことではない」

 皆さんはこれらの意見についてどのように思われるだろうか。もちろん、「英語が話せる=すごい、えらい」と簡単に割り切れるものではない。その上で、受験英語という観点から上記のような意見を検討してみよう。

 そもそも、日本の大学入試において英語が主要科目として取り入れられたのは、明治初期の大学の授業が外国語で行われており、学問を修めるための手段として英語が絶対的に必須だったからである。

 しかし現代では、少なくとも学部レベルの専門的な学問であれば、母語である日本語のみで十分に学ぶことができる。自国の言葉だけで高度な学問体系が構築され、海外の専門書も母(国)語で読める翻訳出版のインフラが整っている環境は、世界的に見ても少数だ。

 もちろん、日本語が完璧なわけではない。日本語によるアカデミアの環境が「ガラパゴス的な豊かさ」であることには留意が必要だろう。参考までにWikipediaの言語別記事数(2026年2月末現在)を見てみると、第1位の英語が約713万本であるのに対して、日本語は約149万本だ。さらに理系分野での翻訳出版は利益を出しづらく行われにくいという難点もある。

 そもそも、大学進学率が明治初期から大幅に増加する中で、全員が最先端の研究者を目指すわけではない。この意味では、アカデミックな文献の読解を中心とする現在の受験英語教育のあり方も問われてくる。

ビジネス英語の役割も変わりつつある

漫画ドラゴン桜2 16巻P149『ドラゴン桜2』(c)三田紀房/コルク

 では、ビジネスの分野はどうだろうか。

 日本では、海外に出稼ぎに出ずとも十分な収入を得ることが(今のところ)可能だ。以前も紹介したが、私の知人である高校の先生が、生徒からこんな声を聞いたという。「将来、自分が英語を使って仕事をする姿をイメージして勉強できるなんて、うらやましい」。

 仕事で英語を使う姿を将来のキャリアとしてイメージすることは、進学校の生徒からすれば当然のことかもしれないが、実はとても贅沢(ぜいたく)なことかもしれない。

 一方で最近は、急速な円安の影響もあってか、海外の農園や飲食店へ出稼ぎに出る若者をニュースで見聞きすることもある。だが、これらはより深刻な社会課題の産物であり、「実践的な英語教育の賜物(たまもの)」と、もろ手をあげて喜べるものではない。

 このように、アカデミアでの必須ツールという役割が薄れ、ビジネス英語の普及も複雑な背景を持つ現状において、受験英語の存在意義は宙ぶらりんになっているのではないだろうか。

 当然、英語を学ぶ意味はある。アカデミアやビジネスを抜きにしても、「異なる言語というレンズを通して、複数の視点から物事を見つめる」という認知的なスキームの獲得は、全ての分野において極めて重要だ。

 しかし問題は、そこまで深い目的意識を持って、あるいはそのスキームを獲得できるレベルで、日々の学習に向き合えているかである。情報伝達という実利はAIに代替されつつある。「なぜあえて自らの頭と時間を使い、異なる言語を学ぶのか、そしてそれを受験で問うのか」という目的をしっかりと再定義し、定め直す必要があるのではないだろうか。

漫画ドラゴン桜2 16巻P150『ドラゴン桜2』(c)三田紀房/コルク
漫画ドラゴン桜2 16巻P151『ドラゴン桜2』(c)三田紀房/コルク