人類が滅びれば、人間の脳がつくり上げてきた「人間にとっての世界」も終わるであろう。その世界は、空間や時間、因果、自己といった、脳が共有してきた認知の枠組みによってかたちづくられてきたからである。

人類の滅亡後は人間が意味づけた
“時間”そのものも消滅する

 とりわけ時間は、私たちが世界を理解する上で決定的な道具である。

 私たちは、時間を川の流れのように、過去から未来へと一方向に進むものとして感じている。

 しかし、物理学の視点から見れば、絶対的な時間は存在しない(Rovelli [2018]“The Order of Time”.日本語訳は『時間は存在しない』〈NHK出版、2019年〉; Buonomano and Rovelli, 2023)。時間とは、系におけるエントロピーの一方向的増大であり、その「流れ」は人間の主観が与えた意味にすぎないのである。

 では、なぜ私たちは時間を流れとして体験するのか。それは、私たちの脳そのものが、エントロピー増大の世界の一部として、周囲の変化に合わせて自らも変化しているからである。

 脳はその変化を利用して機能し、さらには意識を創り出す。この意識の作動が、「過去から未来」という時間の矢を私たちに感じさせるのである。

 絶対的な時間は存在しない。脳が属する環境全体の物理的変化に呼応して、脳自体が変化する。その変化を、私たちは「時間の感覚」として知覚しているにすぎないのである。

 したがって、意識の終わり――すなわち脳の不可逆的停止――は、単にひとつの生命の終息であるのみならず、「時間の感覚と高度な意志をもつ観測装置の消滅」、さらにはその観測装置によって意味づけられていた“時間”そのものの終焉ともいえる。

人類が終焉すると、世界は
意味のない情報の集合体になる

 もし時間が私たちの脳が編み出したフレームであるならば、観測者を失った世界には、過去も未来も、あるいは”今”さえも存在しないのかもしれない。

 そのとき、世界の構造は完全に書き換えられる。時間がなければ、因果律は意味をもたず、変化も、記憶も、進行も生じない。世界はただの静止した情報の集合にすぎず、それを「世界」として経験する主体もいない。

『意識の正体』書影意識の正体』(櫻井 武、幻冬舎)

 人類の終焉は、この”主観的時間宇宙”が静かに終息する瞬間でもあるのだ。

「時間を利用して世界を観察する意識」が完全に存在しなくなったとき、それは世界そのものの消失と区別できるだろうか。

「観測者がいなければ、宇宙はさまざまな場が創り出す情報の”塊”にすぎない。観測者なき世界に、時間や存在は意味をもちうるのか」――そう考えると、最後の意識が消える瞬間とは、宇宙がひとつの自己記述を終える瞬間でもあるのかもしれない。

 私たちはそれを想像することはできる。その想像の中にこそ、「最後の無意識」を理解する鍵があるのかもしれない。