失敗が許されない組織では、あえてリスクを冒して挑戦する人は少ない。イノベーションに課題を抱える企業でよく見られる現象だ。そもそも新規事業創出や組織変革の成功率は高くはない。これまで続けてきた事業や組織を根本から変えようとしても結局うまくいかず、期待外れに終わることは十分に想定される。にもかかわらず、失敗の責任を厳しく追及され、同じ会社にいる限り再浮上できないとなれば、変革リーダーのなり手はおろか、挑戦する社員が増えないのも当然だろう。
幼児は「自分は守られていて安全だ」と思える時、未知の世界に足を踏み出して探索できる。心理学者ジョン・ボウルビィは、この心理的インフラを「セキュアベース」(安全基地)と呼んだ。失敗しても帰る場所があるという安心感が、果敢な振る舞いにつながる。それは大人も同じ。家族や友人との愛着ある関係が基盤となり、新しい仕事やコミュニティに参加してみようという気になるものだ。
企業組織においては、リーダーがセキュアベースとなれば、メンバーの意欲、潜在力、創造性が解き放たれる。そうしたリーダーの下では、意味のある失敗は価値と見なされる。結果としてうまくいかなかった場合も、その経験から学んで、次の行動に活かせるからだ。行動と学習、そして小さな成功体験を積ませることで、普通の人材が「一皮むける」。すると、それを見ていた他のメンバーが感化され、思考と行動が変わる。こうしたボトムアップ型の組織変化は本物だし、息が長い。ただし、変化の渦が自然発生することはまず期待できない。誰かがきっかけをつくり、常にコミットしてメンバーに力を与える必要がある。それがリーダーの仕事ではなかろうか。
挑戦を促すための安全基地をつくれるリーダーは稀有な存在だが、全日本空輸(ANA)の井上慎一社長はその筆頭に挙げられるだろう。日本初のLCC(ローコストキャリア)であるPeach Aviation株式会社(以下Peach)をゼロから立ち上げ、就航から3年で黒字化を達成。2020年4月に専務兼営業部門統括としてANAに呼び戻された矢先、コロナパンデミックで航空需要が消滅し、創業以来の経営危機に陥った。「一円でも多く稼ぐ」ためにあらゆる手を打ち、まさに全員経営で苦難を乗り越えた。2022年の社長就任後は、旺盛な訪日需要に支えられて業績を伸ばしている。その一方で、ビジネス需要の回復は限定的で、追い打ちをかけるように燃料費や人件費の高騰が収益を圧迫している。機材不足や紛争リスクの高まりもあり、視界良好とは言いがたい。それでも井上氏は前向きなメッセージを発信し続け、周囲には常に明るい空気が満ちている。メンバーの挑戦と成長を促すリーダーシップスタイルに迫る。
*このインタビューは井上氏がANA社長時代に実施しました。
井上氏は4月1日付で、
逆境をチャンスに変える
有事のリーダー
編集部(以下青文字):コロナ禍によって未曾有の経営危機に陥った2020年4月、井上さんはみずから立ち上げたLCCのPeachから全日空(ANA)に呼び戻され、専務として営業部門を率いることになりました。そこから2年、ありとあらゆる手を打って懸命の危機対応を続けたのち、2022年4月にANAの社長に就任されます。当時は異例の人事ともいわれましたが、ご自身ではどのように受け止めていましたか。
井上(以下略):いま振り返っても、ANAに戻ってからの2年間は凄絶(せいぜつ)な時間でした。コロナ禍で航空需要が消滅し、4年連続の最高益更新から一転、わずか1年間で事業規模は40年前の水準にまで縮小しました。まさに創業以来最大の危機です。社員はみんな不安そうな様子で、ともすれば下を向きがちでした。
全日本空輸 代表取締役社長井上慎一
SHINICHI INOUE 1958年神奈川県生まれ。1982年早稲田大学卒業後、 三菱重工業を経て、1990年に全日本空輸に入社。北京支店総務ディレクター、アジア戦略室長、LCC共同事業準備室長を歴任し、 2011年に日本初のLCCであるPeachの代表取締役CEOに就任。「空飛ぶ電車」をコンセプトにブランド認知を進め、コスト削減を徹底しつつ、社員のさまざまなアイデアを取り入れながら、経営を軌道に乗せた。2019年にはANAホールディングス傘下のLCCバニラ・エアとの経営統合を主導。2020年に全日本空輸に帰任し、代表取締役専務執行役として営業部門を率いて、コロナ禍という未曾有の経営危機を全員経営で乗り越えた。2022年4月に代表取締役社長に就任し、同社を新たな成長ステージへと牽引している。
ですが、人影がすっかり消えて閑散とした羽田空港に降り立った時に、私は「この景色は見たことがあるぞ」と思ったのです。2011年2月14日に、Peach立ち上げのために関西国際空港を訪れた時のことでした。平日にもかかわらず関空のターミナルは閑古鳥が鳴いていて、折しも雪が舞う寒々とした天気だったこともあり、これはえらいところに来てしまったと思ったのを鮮明に覚えています。
井上さんにとって、パンデミックで人が消えた羽田空港の光景は、かつての関空のデジャブだったのですね。
そうです。まさに同じ光景でした。日本初のLCCとして創業したPeachは、お金はない、寄せ集めの組織でチームワークもない、もちろん実績もないという、ないないづくしのスタートでした。けっして順風満帆とはいえない船出において全員経営で必死に試行錯誤した結果、就航3年目には単年度黒字を達成し、関空のLCC専用ターミナルは大勢のお客様で賑わうようになりました。その経験があったので、いつ終わるとも知れないコロナ禍であっても悲観することはありませんでした。みんなで知恵を出し合えば必ず何とかなる。羽田にも、あふれ返るお客様をきっと取り戻せる。そう思ったのです。
ですからANAの社長を拝命した時には、これは天命だと受け止めました。パンデミックはまだ終わっていなかったし、2年に及ぶ危機対応で社員みんなが疲弊していた。相撲で言えば、まさに徳俵に足がかかった状態です。ならば、ここから盛り返していくほかに会社が生き残る道はない。ゼロイチで立ち上げたPeachの経験も含めて、逆境をくぐり抜けた自分にしかできないことがあるのではないか。その意味では、私は有事のリーダーなのかもしれない。ならば開き直ってやってみようと覚悟を決めました。
そのポジティブな姿勢は天性のものなのでしょうか。
それもあるかもしれませんが、いくつもの修羅場を経験したことで培われた部分もあるでしょう。私はもともと好奇心が強い人間で、何か事が起こるとつい自分の目で見たくなってしまうのです。30代の頃、前職時代に駐在していた北京では、歴史が動くその場に身を置いていました。そうした体験をすると、修羅場への耐性が高くなってしまったのかもしれません。だからPeach立ち上げの時もコロナ禍でも、むしろこの逆境をチャンスにしなければと思いました。
もう一つ大切にしているのは、何があっても諦めずに切り抜けることです。いまやるべきことは何かと必死に考えてそれに集中していると、めげている暇なんてありません。まあ、諦めが悪いともいえるでしょう。
何を手掛かりに窮地を打破しようとされたのですか。
人類は過去に何度もいろいろな危機に直面し、乗り越えてきました。その時、先人たちは何を考えてどう立ち向かったのか。私はふだんから本が好きで、特に歴史に興味があるので、これまでに読んだ歴史上の人物からヒントを得てメッセージを発信し、社員を奮い立たせようと思いました。何しろ急転直下で迎えた未曾有の経営危機にみんなが動揺していて、とにかく不安を抱えていましたから。
真っ先に思い浮かんだのが、第2次世界大戦でイギリスを勝利に導いた首相、ウィンストン・チャーチルです。ナチス・ドイツにくみする国内世論もある中、チャーチルはアドルフ・ヒトラーとの徹底抗戦を宣言して、みずからの言葉で国民を鼓舞します。たとえば、「Never give in, never, never, never, never」(けっして屈するな。けっして、けっして、けっして、けっしてだ)。何とネバーを4回も繰り返しているんですよね。こんな「ど根性」がいまどきの若い人に伝わるのかと不安でしたが、うちの社員には伝わりました。
もう一つ気に入っているのが、「Kites rise highest against the wind, not with it」(凧が一番高く揚がるのは、追い風ではなく向かい風の時だ)というフレーズです。パンデミックで当社は未曾有の危機ではあるけれど、それはよそも同じ。コロナ禍で吹き荒れる向かい風をしっかりととらえて高く飛ぶことができれば、追い付けないと思っていたライバルに勝てる可能性は十分にある。そう社員に言い続けました。先ほどお話ししたように、私自身は諦めが悪いうえに、たいていのことではめげません。しかしながら、そんな人間ばかりではない。だから頻繁に現場に足を運んでスタッフに直接声をかけ、社内のコミュニケーションツールも駆使しながら、とにかくみんなを鼓舞することに集中したのです。
メッセージの締めくくりはいつも、「どうせやるなら明るく楽しく」にしました。絶望的な状況だからこそ楽観主義でいこうと伝えたかったのです。皮肉なことに、チャーチルのどんな名言よりも、社員の記憶に残ったのはこのシンプルな言葉だったようです。でもそのおかげなのか、「一円でも多く稼ぐ」ための窮余の策としてスタートした新規事業提案制度「がっつり広場」からは、平時だったら思い付かないようなアイデアが次々と持ち込まれ、そこから複数の新事業が立ち上がりました。言葉の力は本当にすごいと思います。



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