六角氏への従属と長政の離脱

 この問題は、長政の父・浅井久政の代に一層深刻化します。久政は六角氏との戦いに敗れ、浅井は六角に従属する形になりました。

 永禄2年(1559)、長政は六角義賢の家臣・平井定武の娘を娶(めと)り、義賢から偏諱※を受けて「賢政」と名乗ります。これは六角氏との主従関係を象徴する出来事でしたが、長政はこの状況からの脱却を図ります。婚姻後、わずか数カ月で妻を離縁し、さらに偏諱を捨てて「長政」と改名しました。これらの行為は、六角氏との関係断絶を明確に示すものでした。

※偏諱(へんき)…主に主君や立場が上の者から、名前の一文字をもらうこと

野良田の勝利と国人層の意向

 長政の決断に対し、六角氏は軍事行動で応じ、両者は全面的な対立関係に入ります。永禄3年(1560)の野良田の戦いにおいて、浅井側は勝利を収めました。

 ただし、この一連の動きは長政個人の独断というよりも、赤尾・雨森ら有力国人層の意向が強く反映された結果と考えられています。浅井家の政治構造上、当主一人の意思で大きな方針転換を行うことは困難だったためです。

 六角氏と対立する中で、浅井氏は越前の朝倉氏と連携します。しかし、この同盟も対等なものではなく、浅井側が従属的な立場にあったとみられています。

 つまり浅井氏は、南の六角氏、北の朝倉氏、さらに国内の国人層という複数の制約の中で、極めて不安定な均衡を保っていたのです。

織田信長の台頭と浅井・織田同盟の成立

 大きな転機となったのが、永禄10年(1567)に、織田信長が美濃の斎藤氏を滅ぼしたことです。これにより、浅井氏は強大な勢力と隣接することになりました。

 長政はこの状況を脅威であると同時に好機と捉え、信長に接近して同盟を提案したとされています。

 この同盟は双方に利益がありました。長政にとっては六角氏に対抗するための有力な後ろ盾を得ることになり、信長にとっては上洛の際に北近江の安定を確保する手段となったからです。

 こうして同盟の証として、お市が浅井長政に嫁ぐこととなりました。この婚姻は、個人的な感情によるものではなく、政治的必要性に基づくものでした。

 もし当時、他に適切な縁組の候補が存在していれば、お市ではなかった可能性も十分に考えられます。すなわち、この婚姻は両者の関係を強化するための外交手段の一つだったのです。