近頃は映画でもマンガでもディストピア的な世界観が人気を集めるジャンルとして確立されてきた。人類の滅亡・文明の衰退後の世界が(その過程にある生々しい痛みと悲劇を無意識的に不問にした上でだが)清浄に感じられるのは現代の世相といっていいかもしれない。
ニヒリスト・ペンギン動画もまた然りで、山に向かったその後のペンギンが孤独に餓死していく様子を収めた映像が付け加えられていたなら、見る人の解釈はもっと具体的かつ限定的であったに違いない。
そうではなく、「群れを離れて死が待つ山へ歩く」というワンシーンを切り取ったからこそ、そこに哲学を与える余白が生まれたのであった。
ネット民たちは「ペンギンの死」を
ジョークを交えて語りがち
ニヒリスト・ペンギンの解釈を巡ってすでに無数の考察が行われている。ここでも陳腐な解釈を加えるとするなら「日常生活や人間関係に疲れた現代人がペンギンと自分の姿を重ね合わせた」くらいになるだろうか。
社会学、心理学、哲学など解釈のアプローチが何通りも可能であることも、ミームとしての「ニヒリスト・ペンギン」の受け皿の幅広さを物語っている。
ネットでニヒリスト・ペンギンはしばしばジョークを交えて語られる(ミームの宿命でもある)。たとえば「月曜日の憂うつ」や「ニヒリスト・ペンギンを見て、仕事を辞めてYoutuberになることにした」といった具合で、深刻な要素を含む出来事(ここではペンギンを待つ死)がすぐジョークに変換されたり笑って茶化されたりする。ネットの日常風景である。
「ネット民」と聞いて多くの人が思い浮かべるステレオタイプの「ザ・ネット民」は、「斜に構えていて、冷めていて熱血や真剣を笑い、何かあるとすぐヘラヘラ笑いの種にする――」などのイメージが持たれがちである。これは無論ミーム「ニヒリスト・ペンギン」が語られる上でも確認されるネット民の性格的な傾向である。







