サラリーマンでありながら海外の映画祭で日本人初のグランプリを受賞した長久允氏。その思考法を存分に伝える『あなたにしか作れないけれど、世界に通用してしまう 脚本の教室』が発売から話題となっている。佐久間宣行さん、ラランド・サーヤさんも大絶賛する同書から、抜粋・再構成して特別公開する。(構成/ダイヤモンド社書籍編集局)

脚本の教室Photo: Adobe Stock

「好きにやったらいい」とは言うが

 本気でやったことが何にもならなかったら、怖いですよね。

 大切だからこそ、評価されたいという気持ちはとてもわかります。

 自分が心からいいと思った仕事をした。

 つらかったこと、悲しかったこと、耐えられなかったこと、加害の懺悔と後悔、不謹慎だから言えずに抱え込んでいたこと、そういうものから目を背けずに書いた。

 私は、人生もしくは人生観を脚本に書くという方法を推奨しています。

 ですがそれは、ありのままであるゆえ発表するのがこわい、という感情とも表裏一体だと思います。

「無意味ではない」と断言できる

 ただ、もしその脚本が誰かに評価されなかったとしても、得られるものは必ずあるので不安がらなくていいです。

 これは無責任に言っているわけではありません。

 私の創作方法である「人生を脚本にする」という行為自体が、このような意味合いを持っていると思っているからです。

 脚本を書くということは「客観的に(自分の人生を振り返り)、おもしろがる」行為。

 過去感じた大きな感情を、言葉に吐き出していく。あの頃つらかった自分を、上方からもうひとりの自分が観察して書き記していく。

 そうやってある種、エンタメ化していくわけです。つらさは可笑しみに。惨めさは滑稽さに。

 や、そこまで変換されなかったとしても、主観的な思い出から一歩抜け出すことができるでしょう。

脚本はセラピーでもあるので

 それはなぜか? 

 それは脚本執筆に、かつて思い出を反芻するだけの「主観的視野」では太刀打ちできなかったその事象に対して、「自分を物語化する」ことで、「当時の自分を、現在の自分がありのままに評価」し「当時の自分をおもしろがる」という工程が必然的に含まれるからです。

 つらい体験は、他者からのアドバイスで短期的には忘れられたとしても、また何かのきっかけでぶり返すことがあります。

 しかし、自分で見つけた結論はそれよりも強い効力があるでしょう。脚本を書き切ることができたなら、あなたの物語はなんらかの結論を迎えているはずです。

 自分自身によって(もしくは自分の中にあるもうひとりの自分のメタ視点によって)その物事を肯定できた/受け入れられた場合、その苦しみから解放される可能性が高いのではないでしょうか。

 もしくは改めて受け入れられないことを客観的に再認識することになったとしても、それには必ず意味があるはず。

 私も、広告会社の仕事から一歩離れ、自分が感じたことや想像したことに嘘をつかずに書こうと思って有休10日で作った映画から、映画監督のキャリアが開けました。

 真ん中にあなたが全力で伝えたいエモーションがあるならば、それでいい。それこそが良いのだということを、私は伝えたいのです。