余談だが、東北全体で54大学、九州・沖縄全体で79大学あるのに対し、東京23区内だけで102大学がある。東京在住であれば進学先として検討する大学が多すぎて悩むかもしれないが、東北や九州では検討できる大学が少ないことで悩むかもしれない。

 大学数や収容力について簡単に触れたが、こうしたデータだけでも、「大学進学機会が平等である」と言い切ることが難しくなったのではないだろうか。本記事では、高校や家庭の影響力、「地方」における大学の存在感、「地方」で暮らすことに触れながら、大学進学という選択がさまざまな社会的条件に影響を受けることについて説明する。

誰もがうらやむ地位には
どんな人物がふさわしい?

 個人の可能性を拓いていくことや新しい社会を形成していくことなど、教育にはさまざまな期待が込められているが、私たちが暮らす社会との関係で無視できない機能がある。それは選抜である。

 教育社会学者、中村高康の『暴走する能力主義』によると、自由・平等・効率を標榜する近代社会では、社会的に恵まれた地位へつきたい人々の中から、適切な人を合理的に選抜することが求められている。この「適切な人」を選抜する際に、皆が納得できる基準でなければ不平不満が募り、社会秩序が乱れてしまうため、「能力」を選抜の基準にし、「能力」のある人が恵まれた地位へつくことを皆が納得してきた。「能力」を測ることは容易でないが、多くの社会では学歴(あるいは学業成績)を暫定的な基準として用いてきたのである(*注3)。

*注3 近代社会では「能力」の基準が常に暫定的なものであり、問い直され続けている不安定なものである(中村高康『暴走する能力主義―教育と現代社会の病理』ちくま新書、2018年)。

大学受験という全国レースは
「同じ条件」で行われているか

 先の中村高康が説明しているように、暫定的とはいえ学歴が「能力」の基準足りえるために、いくつかの条件が重要となる。

 第1に、学歴獲得過程が広く開かれていることである。例えば、大学受験は高卒資格を有していて本人の「やる気」さえあれば、誰でも可能であると思われている。つまり、大学受験というレースに参加することは全員可能であり、参加するからにはレースの結果(合否やどの大学へ進学できるかなど)を受け入れることが求められる。