第2に、学歴獲得過程が能力測定手続きとして、社会にとって説得的であることが必要となる。日本では全員一斉実施による学力筆記試験を行うことが一般的であると考えられており(高校入試も大学入試もその形態は多様化しているが)、同じ問題を同じ時間に解答し、そのほかの一切の条件を考慮せず「平等」に実施する試験の結果は、皆が一斉に参加するレースのようなものである。

 その象徴とも言えるのが、毎年1月に行われている「大学入学共通テスト」である。約50万人が受験する巨大なイベントだが、全国津々浦々の何百何千という会場において、全く同じ時間に同じ科目の試験が行われるよう制度設計されており、まさに「同じ条件」で試験が行われることが徹底されている(*注4)。皆が「同じ条件」のテストだからこそ、その結果の成否は受験者本人の「能力」をあらわしたものと考えられるのである。

 しかし、近年さまざまな格差が教育には存在していることが注目を集めている。例えば、教育社会学者、松岡亮二の『教育格差』では、両親の学歴という「生まれ」が、その子の幼少期から大学進学に至るまで影響を与え続けていること、数多くの格差を生み出していることを指摘している。また、筆者も分担執筆した『現場で使える教育社会学』において、日下田岳史は親の経済状況が大学進学率に影響を与えることを指摘している。

 要は個人の「努力」の背後にある社会的諸条件によって、教育達成や学業成績に影響を及ぼす社会に私たちは暮らしているのである。

*注4 厳密に言えば、筆者が居住する宮崎県のような温暖な地域と、冬は悪天候に見舞われやすい日本海側とでは、「同じ条件」と言えないかもしれない。余談だが、「共通テストの試験監督」は筆者(他の大学教員も?)にとって大変辛い仕事である。

高校入学の時点で
走るコースは決まっている

 情報が溢れている現代社会であれば、大学が身近ではない地域であっても、インターネットやSNSなどのメディアから、大学という存在を知る機会は数多くあるだろう。また、「学びたい学問がある」や「将来就きたい仕事のため」といった本人の意思も重要である。

 ただ、それらだけで自然と大学進学を目指すわけではない。大学進学を目指すよう方向づける社会的条件として、学校教育、特に高校のもつ影響力は大きい。