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浅草は江戸の歴史が息づく文化の街、銀座はハイソな日本の中心地、新宿は東洋一の繁華街――。今ではこのようなイメージが定着しているが、かつては、まったく異なる顔を持っていた。人間の欲望と熱気を記録し続けた大宅壮一の視点から、歓楽街の変遷をたどる。※本稿は、大宅壮一著、大宅映子監修、森健解説『大宅壮一 昭和史の証言「無思想人宣言」の思想』(藤原書店)の一部を抜粋・編集したものです。文章の初出は1951年4月の『サンデー毎日』に掲載したものです。
かつて日本の娯楽の
発信地だった場所は?
「浅草は東京の心臓であり、また人間の市場である。万民が共に楽しむ――日本の盛り場である。したがってまた、歓楽の花の蔭に罪悪の匂いが漂う、暗黒の街である」と川端康成もいっているように、浅草の歴史は、そのまま日本の大衆的な娯楽、歓楽の歴史である。
世界中から日本に入ってきた新しい娯楽は、すべてまず浅草で始められ、テストされ、そのテストを通ったものが、全国に流れていくのである。逆に安来節その他の地方的なものも、一度浅草の舞台を踏むことによって、初めて国民娯楽として、全国的に認められるわけだ。
歓楽街を構成する要素としては、各種興行その他の娯楽施設、流行品を売る店舗、飲食店などとともに、性的な欲望を直接みたしえないまでも、その面でも、魅惑的なものがなければならない。
それから最後に、もっとも重要な点は、大きな群集がいるということだ。群集というものは、これらの魅力につられて集まってくるのであるが、逆にまた、群集の集まっているということが、なによりも大きな魅力となる。







