日本に初めて「常設館」というものができたのは明治36年で、浅草の電気館がそれだ。それまでの電気館は、珍しい電気じかけの器具機械類やX光線の実験などを、主として見せていたのである。

 それらの説明役をしていた染井三郎の口上が、活動写真の場合にもたいへん受けて、常設的な興行が可能になったわけである。

映画の隆盛と呼応するように
浅草の景色も変わっていった

 そのころ見物は、げたばきのまま土間に立たせられていた。また、そのころの夜の浅草は、暗くて人通りがなく、物騒でもあったので興行はほとんど昼間に限られていた。

 見物は、映写が始まる前はすべての舞台の方に尻を向けて、映写室の方ばかり見てたという。機械が珍しかったのである。

 やがて、フランスのパテー会社(編集部注/フランスの映画製作・配給会社。世界最古の映画会社の1つ)撮影の日露戦争実写が入ってきて、それとともに「ナポレオン一代記」が上映された。その映写時間45分。「空前の大長篇」ということで、たいへんな呼び物となった。

 その間にも映画の興行界制覇は全国的にどんどん進められていった。浅草でも、剣舞、娘手踊り、活人形といったような従来の見世物類はしだいに駆逐されて、それらの小屋は常設館に改造された。

 それが、もっとも盛んに行われたのは明治40年から41年にかけてであって、三友館、福寿館、大勝館、富士館などが出そろった。たいてい洋風のハイカラな建物で、それによって浅草の面目が一新した。

 明治42年には、オペラ館が開場した。ここでは「実物応用活動写真」といって、活動写真と実演をチャンポンにしたようなものをやっていたが、後には名実ともにオペラ館となり、田谷力三その他の名歌手を生んで、日本式オペラ全盛時代をつくり出したのである。

 さらに43年には、ルナパークが完成した。これはアメリカの代表的歓楽街コニー・アイランドにある総合的な娯楽場の名をとったもので、そのころの一切の娯楽施設はもちろん、南極旅行館、天文館、植物温室等々から、内外の物産直売所まで設けた。惜しいことに、翌年失火のために全焼した。