その角にあったライオンは、カフェーのさきがけとして、少しおおげさにいえば、日本の文化史上に逸することのできないものである。

 髪を長くした文学者や美術家、青いトルコ帽をかぶった新劇俳優とともに尾崎行雄、後藤新平、大倉喜八郎などという政界の巨頭までが、ここでゆっくりとコーヒーを飲んでいたという。

 そういう時代だったので、まもなくパウリスタ、プランタン、タイガーなどというのが続々できた。

銀座を歩くことは
通な大人の証だった

 その後、表通りの大カフェーよりは、裏通りや地下室のバーが繁盛し、サイセリヤ、モンマルトル、メーゾン・ヤエ、ジュン・バーなどが、芸術家たちの根城となった。広津和郎の小説『女給』で菊池寛とのモデル問題を起こしたのは、たしか「サロン春」に出ていた女だった。

「銀ブラ」という言葉は、初め「銀座の地回り」という意味だったのが、大正7、8年ごろから、いまのような意味に用いられるようになったらしい。

 もっぱら裏通りを歩くのを「銀ウラ」といったり、「シロガネスワリチリアルキ」(銀座散歩)などという隠語をつくって通がったりしたのも、そのころである。

 ビジネス街として丸ノ内にぞくしていた有楽町が、銀座の延長として歓楽街に編入されるまでには、大震災後と戦災後という2つの段階をへている。もちろん、すでにその前、明治40年に帝国劇場、その翌年に有楽座ができて、多少そういった性格はそなえていた。

 昭和19年3月の「決戦非常措置」(編集部注/太平洋戦争末期、空襲対策として地方への疎開の推進、旅行の制限、高級享楽の停止など、国民の日常生活に多大な影響を及ぼした)に基づいて、高級劇場はすべて閉鎖された。

 浅草と違って「高級」なものの集中しているこの地帯は休店続出の銀座とともに、一時、歓楽街としての資格を失ってしまったことを、いまも覚えている人があるだろうか。

大正期の新宿の通りは
牛馬のふんだらけ

 戦後、浅草と銀座をいっしょにしたような発展ぶりを見せているのは新宿である。