そうした大きな群集のいるところには、スリ、浮浪人、よた者、その他犯罪性をおびた人間も混じっているのが普通で、一種不気味な雰囲気をかもし出すものである。

 しかしそのために、歓楽街の魅力は減殺されないばかりでなく、かえって増大するのである。

 以上の諸点からいっても、古くから興行街のほかに、吉原、千束町、玉の井、亀戸、鳩の街などの性的なヒンターランド(編集部注/後背地)を持つ浅草は、日本の代表的な歓楽街であるといえるであろう。

明治期における
娯楽の王様は?

 いまでは「六区」というのが浅草の代名詞のように使われているが、これは明治維新後、観音さまの境内を七区に分かち、西南部の第六区に見世物小屋を集めたところからきているのである(編集部注/明治政府は、浅草寺の境内を官有化し、明治6年に浅草公園を開設した)。

 試みに、明治39年における浅草公園内における見世物の種類と、その入場料を示すと、つぎのとおりである。

大盛館(江川玉乗り)大人3銭、子供2銭
清遊館(浪花踊り)大人3銭、子供2銭
共盛館(少年美団)大人3銭、子供2銭
日本館(青木玉乗り)大人3銭、子供2銭
野見(剣術)大人3銭、子供1銭5厘
清明館(剣舞)大人2銭、子供1銭5厘
明治館(大神楽)大人3銭、子供2銭
電気館(活動写真)大人10銭、子供5銭
パノラマ(戦争実況)大人10銭、子供5銭
珍世界(遺物陳列)大人5銭、子供3銭

 このころ、まだ活動写真は珍しく、断然高かった。別に「花屋敷」というのがあって、ここでは各種の娯楽を集めていたので、これは30銭とって、1日遊べるようになっていた。

 個々の娯楽についていえば、この50年間に栄枯盛衰の跡が激しく、今昔の感にたえないが、浅草においてのみならず、全国的にいまも大衆娯楽の中心となっているのは、なんといっても活動写真すなわち、今日の映画である。

 キネマスコープと称する映画の元祖が、日本に輸入されたのは明治29年で、「写真活動目鏡」と命名されて、最初の興行先は神戸で行われた。東京では翌30年「花屋敷」におめみえした。