大正12年の大震災から
復興するのも早かった浅草
そのころ浅草の興行界は、新門辰五郎(編集部注/幕末から明治初期にかけて活躍した侠客の親分)一家の勢力下にあって、各興行場の従業員は、この顔役の身内でないと雇えなかった。
その上に、彼らは歩金(編集部注/手数料)を要求し、それを拒むと、入墨の兄チャンがあばれ込んできた。こうした空気を緩和するために、洋装(といっても黒いエプロンをつけただけ)の案内ガールを採用したということだ。
この浅草も、大正12年の大震災には、観音さまだけを残して、仲見世も、興行街も全滅した。
浅草の名物であり、目印でもあった「十二階」(凌雲閣)は、途中から折れて、長い間残がいをさらしていた。同時に、その下に店をはっていた私娼くつも、一掃されてしまった。
しかし、さすがに浅草の復旧はどこよりも早かった。ただし、震災後の日本の退廃的な雰囲気から剣劇が喜ばれ、安来節が大いに客を呼んだ。
そのために、バタ臭いオペラがすっかりおされてしまった。そこでオペラ歌手は、映画のアトラクションに出るようになり、日本で初めてボードビルといえるようなものが生まれたのである。
ライオンの登場で喫茶店の
メッカになった銀座
明治30年ごろの銀座は、勧工場(編集部注/明治時代に流行した、百貨店やマーケットの先駆けとなる定価販売の小売店集合施設)というものがおおはやりで、一時7つもあったという。1つ屋根の下に、いろんな店が並んで、プカプカ、ドンドンと楽隊で景気を添えて、客を呼んでいたのである。
資生堂がソーダ水やアイスクリームを初めて売り出したのは明治35年で、これが新文化の象徴として、氷水が1銭、2銭の時代に、10銭、15銭で、飛ぶように売れたという。
そのころ田舎の友だちから「東京の銀座でアイスクリームを食べている君をうらやむ」という手紙が来たと、松崎天民(編集部注/作家、新聞記者)も書いている。
尾張町の角(編集部注/現在の銀座四丁目交差点)が銀座の心臓であることは、いまも昔も変わりはない。







