それが満場一致の決定で、フタをあけたら、現在まで国費だけで18億円も使っている。
いってみれば、ここにも「何でもやりまショー」の精神が現れているのだ。
興味を煽ることしか
眼中になかったテレビ界
新しいマス・コミとして登場したばかりのテレビは、目でみるという特性からも、当然まず「興味」で人をつることを考えた。
興味に訴えることがかならずしも悪いとはいえないが、はげしいダイヤル争奪、視聴率競争は、そのまま、放っておけば、興味の質を考える暇がなく、もっぱら度の強さをきそうことになる。
興味の度の強さ――刺激の強さをつき進めていくとゲーム、勝負のスリルとなり、プロレスが八百長であることをだれもが知っていながら、テレビの前が黒山になるといったことになる。
視覚の刺激の度=視る興味も、質を考えずに、度だけ追っていくと、人間のもっとも卑しい興昧をつつく方向に傾いていく結果にもなる。
人間は、たとえば街角で犬が交尾していれば、立ち止って見たい気持ちを持っている。見終わったあとでは、バカバカしい、用事があるのに犬の交尾なんか見て……とはいうが、火事があれば、また走っていく、というわけだ。
刺激が過剰になり、刺激の度をますます強くしなくてはいけない状態が続けば、その刺激のない平常の時間に、人はボンヤリとしてしまう。それは痴呆化するということである。
テレビというメディアは、マス・コミのなかで、こういう人間の低い興味と接触する機能を、本質上もっとも多く持っているということだ。
いわゆる視聴率の競争が、それに拍車をかける。スポンサード・プロというものは、スポンサーの身になると、散弾で小鳥を射っているようなものである。
自分の商品の購買層と、提供している番組の愛好者とが、どんな比率でダブってくれるのか、容易には判定しがたい。そこからくる焦りが、番組の対象を、むやみと量的に拡げたがる傾向となって、いっそう、番組の低俗化を促す作用をする。







