(6)身体性の両義性

 祝辞は老い、死、苦しみ、愛情、創作の喜びといった経験を、身体を持つ存在に特有の尊さとして列挙する。しかし身体があるからこそ人間は恐怖し、怒り、欲望に振り回され、同調圧力に引きずられる。偏見、暴力、集団的熱狂も身体的、情動的なエネルギーなしには理解しにくい。身体は倫理性や共感の拠り所であると同時に、愚かさや破壊性の源でもある。この両義性を無視したまま身体性を神聖視すると、人間理解は一面的になる。

(7)戦争を始める主体は誰か

 身体を持たないAIは効率だけを追い、極論すれば核爆弾の使用さえ示唆しかねないとも語られる。しかし、現実の戦争判断は政治的意思決定、制度設計、法規範、相互抑止といった複合的な因子が関わる問題であって、身体の有無だけでは説明できない。

 しかも実際に核使用や大量虐殺を最終的に決断してきたのは身体を持つ人間であり、身体に根差す恐怖、怒り、復讐心こそが破滅的判断の大きな要因だとすれば、身体を持たないことはむしろある種の情動的暴走から自由である可能性すら持つ。「身体がないから危険」という単純な図式は成立しない。

(8)創作の喜びと社会的機能

 創作過程には喜びと苦しみがあり、その過程を生きることもまた創作であるという主張は切実だ。しかし創作者にとっての創作経験の意味と、社会において、創作の機能がどこまでAIに代替されうるかは別問題である。人間が創作に喜びを感じることは、AIが創作の一部を代替しないことの根拠にはならない。創作することの主観的価値と、創作物の社会的機能が混同されている。

(9)「若いAI」は本当にできないか

 詩的表現として大変魅力的だが、「若さ」の定義が曖昧なまま使われている。若さを生物学的年齢として捉えるなら、AIには確かに若さはないが、可塑性、探索性、未固定な価値観、失敗コストの低さなどの複合状態と定義するなら、それらはある程度認知的、行動的特性として記述可能であり、概念的な妥当性はあまり高くない。