(10)「記憶バトル」から「身体の有無」への論点のすり替え

 祝辞は冒頭で東大生の「6万年分の記憶」とAIとを対決させると宣言しながら、後半では「なぜあなた方がAIとバトルさせられなくてはならないのか」と問い直し、AIの身体なき判断の危うさを語る方向へ転じる。劇作家らしい構成としては理解できる。

 しかし知的説得として見ると、前半では「記憶量の対決」が設定されていたのに、後半では「身体の有無」という別の軸にすり替わっている。この論点の転換が明示されないまま進むため、論旨の連続性がやや不明瞭になっている。

(11)不確定性原理と心身の複雑さ

 祝辞でもっとも知的な雰囲気をまとうのが「ラプラスの悪魔(筆者注:祝辞ではラプラース)」のくだりだ。19世紀初頭に物理学者ラプラスが提唱した「すべての原子の位置と運動量を把握できれば未来を完全に予言できる」という決定論的思考実験が、20世紀にハイゼンベルクの不確定性原理(粒子の位置と運動量を同時に確定できないという量子力学の原理)によって覆されたと説く。

 この説明自体は科学史の概説として正確な紹介だろう。しかし、物理的な測定限界、社会現象の予測困難性、感情の複雑さは、それぞれ別のレベルの話だ。量子スケールの不確定性を身体の経験や心の複雑さという不確実性に直接結びつけることはできず、カテゴリー錯誤のように思われる。これは科学的な概念を人文的主張の補強に使うレトリックである。不確定性原理と身体や心を直結させ、だから不確実な身体や心が大事と帰結するのは飛躍がすぎる。

 なお、不確実性があるからといって科学的な構造分析が無効になるわけではない。複雑な系であっても収束しやすい状態や均衡点の候補は考えられるからだ。

(12)「人間vsAI」という構図そのものの古さ

 祝辞全体は、AIを人間の外にある脅威として置き、人間の特別性を守らなければならないという構図で進む。しかしこの対立構図自体がすでに古い。近年のAI研究では「AIに勝つか負けるか」といった対立ではなく、協働や拡張知能が中心的に議論されており、人間がAIとどう結びつき、どう役割分担し、どう統治するかにテーマが移っている。内容だけでなく、問いの立て方そのものに古さがある。