pha:老賢者、という感じで、年寄りがひとりでいるのがなんかさまになりますよね。
失恋を悲しむよりも
「あはれ」と詠嘆しよう
齋藤:「寂しい」っていう感情は、マイナスに受け止められがちですが、東洋思想では寂しい前提で生きています。むしろ孤独はそんなに悲しいことではありません。同様に貧乏に対しても「持たざるが故に強い」と考えてきました。
アメリカ合衆国の父のひとりとも言われるベンジャミン・フランクリンの『フランクリン自伝』を読むと、西洋との違いが歴然です。フランクリンは厳格なプロテスタントなので、生活全般の規律をキチンと守っています。日頃から節約して、「みんな昼間からビールを飲むのはやめよう」「みんなちゃんと働こう」「貯蓄をしよう」と率先して規律を守っています。そうして暮らしているうちに否が応でも貯蓄が膨れ上がります。
結果として経済的に成功するのも当然です。生活の規律を守り貯蓄に励めば、嫌でも何でもお金が増えてしまうのが資本主義です。禁欲的で清貧を重んじるプロテスタントが、資本主義とつながる逆説。これをマックス・ヴェーバーが著したのが、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』でした。
一方、日本では1992年に中野孝次氏の『清貧の思想』がベストセラーになりました。そこでは、「寂しさ」や「貧しさ」をネガティブではなく、日本の伝統的な美徳であると論じました。この考えこそ東洋思想的だということを私は「清貧の思想」で再確認しました。東洋思想では、「寂しさ」や「貧しさ」は「あはれ」とされていました。
そういう意味でも「手放す」ことに対する独特の感性が、東洋思想にはあります。持っているモノを捨てるとか、あるいは既存の考え方は捨て去るということに対して、必ずしも悪い意味だけを含まないのが東洋思想です。
例えば恋愛でも、最近の大学生は、ショックをやわらげようと『LINE』で別れを告げるそうなんです。しかし、直接顔を合わせて別れを告げられるよりも、『LINE』で別れを告げられたほうが唐突でショックなはずです。
『あらゆる悩みは東洋思想で解決するかも』(齋藤 孝、pha、徳間書店)
しかし、東洋思想においては、失恋をしてもあまりショックを受けすぎず、来る者は拒まず去る者は追わずという側面があります。
pha:あらゆる物事は移り変わっていくもので、自分にはどうしようもないことだ、みたいな諦めが含まれている感じでしょうか。
齋藤:確かに諦念っていうのは、東洋思想においては特徴的な考え方です。
pha:齋藤先生の『使える!「徒然草」』(PHP新書)を読んだのですが、『徒然草』は作者の兼好法師が程よく現世から距離を取って諦めた感じなのがいいですよね。世の中を外側から見ていて、人間の作ったものがすぐに滅びてしまうことに対して「あはれ」と詠嘆しているのがいい。
あらゆるものは変化して流れ去ってしまうという、「諸行無常」という概念はブッダや老子の頃からある思想だと思いますが、それが日本に入ってきて「あはれ」という言葉と組み合わさると、なんかちょっと湿っぽくて感傷的な感じになりますね。







