また、電電公社(現・NTT東日本株式会社)に電話を発注した。かかる費用は加入権5万円に設置工事費1万円、計6万円である。入るまでに2~3カ月かかる見込みであった。

 午前2時までしばらく1人で営業してみてから、東京でタクシーの運転手をやっていた弟の功に事情を話し、「出前をやって欲しい」と頼みこんだ。

夜10時に店を閉めていては
岩槻の客はつかめない

 神田は、夜10時には弟の功を帰宅させた後、午前2時頃まで深夜営業を続けた。その頃になると、人形の町・岩槻の内情について、少しずつだったが情報を得ていた。

 岩槻の人形作りは江戸時代以来、2~6人の家族を中心とした家内工業と、地域の分業ネットワークで成り立ってきた。頭、胴、手足、着物、小道具など工程ごとに手仕事が分かれ、町全体で一体的に生産を行なってきた。

 多くの家族従業員、職人たちは、忙しい時は夜の10時過ぎから11時頃まで、仕事をするのが当たり前だったのだ。だから「1杯飲みに行こう!」「ラーメンでも食いに行こう!」となるのは、早くても夜の10時過ぎになる。

 雇われ店長の頃の「来来軒」では、その時間に店を閉めていたのだから客が来るわけがなかった。

 一般的に、よくある感じの町中華のオヤジさんとおかみさん夫婦で営んでいるような生業店、家族で営業する家業店など、とにかくラーメン屋は夜10時に店を閉めるのが常識だった。神田はその常識の逆をいき、あえて午前2時まで営業した。深夜営業そのものがまさに“逆張りの発想”であった。

「こんなに儲かるのか…」
深夜営業の効果は絶大だった

「あの頃、岩槻名店街で出前をやったり、深夜営業をやるような熱心な店は1軒もなかった。当時はまだコンビニも普及していなかったし、深夜営業の競争相手といえば駅前の屋台ラーメンくらいでしたね。店の暖簾の脇に、屋台のラーメン屋のように大きな赤提灯を吊るして、1階からも見えるようにしました。

 そうして5~6カ月、午前2時頃まで深夜営業を続けていると、深夜0時過ぎ頃からお客様がじわじわと入り出し、初めて満席(15席前後)になったことがありました。ものすごく驚き、うれしくて感動しました。

『日高屋 10人中6人に美味しいといわれたい』書影日高屋 10人中6人に美味しいといわれたい』(神田 正、日本実業出版社)

 深夜のお客様というのは、居酒屋のようにビールや酒、つまみになる炒め物や餃子などを注文し、最後にラーメンで腹を締めて帰るのです。深夜に営業すると、こんなに儲かるのかと、びっくりしました。

 お客様の酒飲みに付き合って、明け方の4時頃まで営業する時もありました。ラーメンは夜・深夜に売れる――これは私の確信になりました。功と始めて1年が経つ頃には、10時過ぎ頃から満席になり、深夜までお客様が居続けるようになりました。岩槻名店街の『来来軒』は、ラーメン屋+居酒屋+食堂のような店で、メニューは町中華と同じで70品前後あり、予想以上に儲かりました」(神田)

 神田が「来来軒」岩槻名店街2階の店の立て直しに打ち込んだ、1969年(昭和44年)12月頃から1971年(昭和46年)12月頃までの約2年間は、神田自身が「いつ頃のことだったかよく覚えていない」というほどの働きっぷりであった。