やがてズーイは、大好きだった長兄シーモアの生前の言葉を思い出します。ある番組に出る前、靴をきれいに磨くようにシーモアに言われ、ラジオのアナウンサーや観客なんてバカばっかりなんだから靴を磨く必要はない、と幼いズーイは言い放ちます。そんな彼に、シーモアはこう諭したのです。

「おまえは太ったおばさんのために靴を磨くんだよ」。

「太ったおばさん」と聞いて、ズーイはなんとなく、癌を患っていて一日中バカでかい音でラジオを聴いているおばさんを思い浮かべました。そんな脳内おばさんのためになら、なぜか靴を磨き続けることができたのです。

 太ったおばさんじゃない人間なんてどこにもいない。誰もが太ったおばさんで、それこそが祈るべき対象である。そう聞かされたフラニーの顔に、微笑みが戻ります。

 後半半分近くを占めるズーイとフラニーの議論は宗教的な要素も多く、解釈もいろいろです。ただシーモアの「太ったおばさん」理論を、悩める大学生向けに解釈すると、こういうことではないかと思います。

 他人に自分を引き上げてくれる高尚さを期待して、それがないことに絶望するのではなく、他人の弱い部分に目を向け、それに対して自分が何を与えられるのかを追求するということ。

 自分を苛立たせる他人の痛さの背景にあるシステムに目を向け、個人ではなくシステムへの抗い方を考えること。そのために自分のスキルを磨くこと。

 最後のくだりで、一口も口をつけないチキンスープを作り続ける凡庸な母親の行為も、フラニーを傷つけないようにほかの人間になりきって語りかけ続けるわざとらしいズーイの演技も、すべて祈りに反転します。

 凡庸な行為の中に祈りを見いだせれば、他人や自分の凡庸さも許せるようになるかもしれません。