その理由の一つは、多聞山城です。当時「日の本随一」と称されるほど豪華で先進的な城を手に入れることは、信長にとっても魅力的だったのでしょう。なにしろ信長は、のちに多聞山城の一部を安土城へ移築したくらいですから。

 さらに、松永久秀には三好政権で培った政治力と外交能力があり、信長にとって利用価値が高かったことも、降伏を認める大きな理由だったのでしょう。

二度目の裏切りと、信貴山城の最期

 しかし、天正5年(1577)、松永久秀は再び信長に背きます。当時、久秀は本願寺攻めの最前線・天王寺砦にいましたが、突然戦線を離脱し、信貴山城へ立てこもったのです。

松永久秀松永久秀 (C)NHK

 背景には、追放された足利義昭による反信長工作がありました。義昭は、上杉謙信や武田勝頼らへ「共に信長を討とう」と呼びかけており、久秀もその誘いを受けていたと考えられています。

 一度裏切った自分を、信長は完全には信用していない――。そう感じていた久秀にとって、これが最後の勝負に思えたのかもしれません。

 しかし、結果は悲惨でした。信長は激怒し、人質となっていた松永久通※の幼い息子2人を処刑。そして同年10月、信貴山城を包囲します。

※松永久通は、松永久秀の嫡男。つまり殺された幼子二人は松永久秀の孫に当たる。

『信長公記』によれば、落城した信貴山城で、松永久秀は天守に火を放ち、そのまま焼死したとされています。

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