
報道と創作は完全に別物
シマケンを題材にした作家、あるいは物語論はまだ続く。
ここで気になるのは「書かれた本人だって無傷じゃ済まない」ということ。書かれた人に無断で傷をつけていいのだろうか。槇村、そんな開き直らないでほしい。
モデルを傷つけたであろうことを思いつめたシマケンは病院を訪ねる。
「一度世に出した文字は取り消せないから。さらに書くことで、少しでも何かいい影響をと再び記事を書いたんです」とりんに言い訳。だが記事化を反対していたりんも文字の力を認めざるを得なくなっていた。新聞記事によってセツの待遇がよくなったからだ。
でもシマケンは「会いもしないで書き連ねて。あなたに対しても、ものを書くということに対しても、誠実ではなかった」とセツに謝罪する。
当のセツは、記事のように儚げじゃないし、雪国出身でもないがそれはどうでもいい、と投げやり。結局、自分の人生は変わらないと諦めているから。ただ、「でもあの記事の中だけでも、一緒に死のうと思えるくらい好いた男と出会えたら、少しは救われるものさ」とも付け加える。そのセツの横顔には果てしない絶望が滲んで見える。
物語とは「ありえたかもしれない」世界を描き、読んだ人や、書かれた人に救いをもたらすもの。そんなひとつのごく一般的な考え方がセツを通して語られた。そこで思い浮かぶのは、最近、史実を元にして書かれたフィクションの、どこまでが史実に忠実でどこまで創作が許容できるかがSNSで盛んに議論されていることだ。
朝ドラでも、前々作『あんぱん』では主人公ノブ(今田美桜)のモデルは軍国主義だった記録がないにもかかわらず、一時期ではあるが軍国主義に描かれ、賛否両論を生んだ。
前作『ばけばけ』は主人公トキ(高石あかり〈たかははしごだか〉)の夫・ヘブン(トミー・バストウ)が小泉八雲をモデルにしていたにもかかわらず、作家としての物語があまり書かれないことを物足りなく感じた視聴者もいた。だがあくまで主人公は作家の妻であって作家の物語ではないため、それを楽しんだ視聴者も少なくなかった。
大河ドラマ『豊臣兄弟!』は史実と史実の隙間を巧みに縫い創作で膨らませ、それがライトな少年漫画テイストであることが賛否両論を生んでいる。
6月4日に発表された28年度前期の朝ドラ『ほんのモキチ』は歌人・斎藤茂吉とその妻をモデルにして、史実を元に宮藤官九郎が大胆に脚本化するものになるという。実在の人物のフィクション化は人気ドラマの1ジャンルである。
『風、薫る』も原案を大胆に書き換えた物語としている。原案と比べてみるのも楽しみのひとつだし、トメのように知らなかった明治の看護事情やそれこそ女性の生き方を知ることもできるのだ。
ここでもうひとつ気になることがある。
シマケンの書いたものは小説ではなく、記事として世の中に認識されていることだ。報道と創作をごっちゃにしてはいけない。こんなふうに記事と小説の違いを曖昧にしてドラマで書くと、また勘違いが生まれていくのではと余計なお世話だが思う。シマケンは堂々と夕顔の物語を小説として書けばよかったのだ。
シマケンの書いたものの威力は絶大で、副院長(森田甘路)まで、「私も記事を読みましてね。胸が痛みました」と急に善人ぶった顔と口調になり「当院としてはしっかり回復させて早い退院を」とりんたちに言い含める。
セツは一生分大事にしてもらったからもう退院したいと言う。
「大事にしたんじゃありません。これが看護なんです。私の仕事です」
そう返す直美(上坂樹里)の顔つきに注目したい。じつに清らかだ。そのあと、権田(梅垣義昭)を睨んだときの凄みある顔とはまったく違う。みなしごとして世をはかなんできた直美の心境の変化、成長を上坂樹里が鮮やかに演じている。
作家とは、物語とは何かについて書いて、チェーホフにまで脱線していたら、セツの「たいていの女郎は子どもは産まないし、産めないもんだよ」(第52回)について書けなかった。それは第54回を見てからにしたい。







