ストレスを生み出す雑音は
完全にはコントロールできない
私は特に聴覚過敏がひどいらしい。ジョン・ケージの有名な楽曲の作曲経緯で知られるように、人間はおよそ無音という状況に置かれることはない(編集部注/ケージは、1951年、ハーバード大学の無響室で自分の体内音を聞いたことから、「完全な無音は存在しない」と考えた。この体験をベースとして、翌年、演奏者が音を出さない『4分33秒』を発表した)。
これを紛らわすために私は多くの対策を講じてきた。ストレスを生み出す周囲の雑音は自分で完全にはコントロールできない。むしろ、ストレスを軽減するためには自らの聴覚をコントロールする方法を見つければ良い。
そこで、(2)として何らかの作業をしながらヘッドホン、イヤホンで音楽(この音楽にも不確実性は含まれないことが望ましい)を聞くと、周囲のコントロール不可能な雑音をコントロール可能な音楽でマスキングする形になり、雑音は全体的に鳴りを潜める。結果としてストレスの排除が可能になり、より作業がしやすくなるのである。
しかし、そのようなインプットができない状況では、自分の記憶の中にある音楽に頼らざるを得なくなる。それだけでは心細いので、鼻歌でその曲を再現することになる(自己から発している音であり、コントロール可能なので不安の原因にはならない)。疲れがたまりすぎた時、授業中であったとしても私はこの「聴覚自己入力」を行うのだが、その結果、ほぼ必ず10分おきに教師から怒られる羽目になる(理屈を知らなければほとんど理解不能な行動である)ので、あまり賢い解決策ではないし、(少なくとも教室では)おすすめもできない。いうなれば最終手段である。
一見無意味な行動にも
意図や意味が潜んでいる
これらすべての総括として私が言いたいのは、我々の一見無意味な行動にも、意図や意味などが潜んでいる可能性が十分にあり、それをするに値する十分な合理性が、その人にとってはあるということである。であるから、頭ごなしにその行動や思考回路を否定せずに、その人の立場に立って、行動からその意味や、その行動に至る合理性を見つけ出し、その他の人にとっての合理性との折り合いをつけて、できるだけ大多数が幸せになれる社会の構築や配慮を心掛けることが大切である。







