そのためには、どのような行動原理に基づいて我々が行動するのか、という点について議論する必要があるだろう。それは「安心」とか、「自らが満たされた状態」、「そうあって欲しい状態」などを含む、「合理的な世界」の実現であるのだと思う。我々にとって幸せな状態とは、「安心できる状態」であると仮定すると、そのために必要な要素は、「周囲の安定性・予測可能性」であり、その実現のためにはできるだけ周囲が安定的で、動きの少ない平和な状態の維持が求められる。

 もちろん、適度な刺激、またの名を「Getting out of my comfort zone(快適ではない状態に自らを置く)」は成長のために必要な要素である。であるから、必要なときには必要なだけこのセオリーを破る必要があるだろう。

帽子、カバン、腕時計…
自分にとっての「安心」とは?

 これを踏まえて、私の行動を説明してみよう。

 たとえば、私が手持ち無沙汰になって爪を噛んでいるとしよう(実際に私は爪をよく噛む)。これはコントロール可能な感覚の例で、爪を噛むという自己刺激運動によって感覚の中における触覚の割合がより多く割り当てられ、他のセンサー(聴覚など)に割り当てられるエネルギーが減るために、一時的に聴覚過敏が改善される。

 同じく、読書は聴覚過敏から逃げる良い方法だ。視覚はもともと感覚の中で大きな割合を占めているそうだから変な話でもない。本を読むと視覚が全体の内でさらに大きな割合を占めることにより、聴覚への情報量が少なくなり、聴覚過敏をほぼノイズキャンセリングヘッドホンをつけているのと同じレベルにまで改善できる。

 ただ、問題は視覚に感覚が集中しすぎて、話しかけられたり、先生が肝心なことを話したりしていても聞こえなくなってしまうことである。傍から見ればさぞ行儀の悪いことだろう。授業中に堂々と本を読み、指示も授業も聞かない。これが行儀の良いわけがない。しかし、聴覚過敏その他モロモロの事情で疲れ切った私には、これしか一日を乗り切るすべがない時もあるのだ。

 先ほど述べた通り、私はできるだけ生活を、世界をコントロールしようとする。たとえば、周りの物事の再現性を上げると安心する。いつもと違うものに対する動揺を削減できるからだ。

 たとえば、お気に入りの帽子をかぶっていると何となく落ち着く。頭にお気に入りの帽子がフィットする感じや、つばによって光が遮られて、目に対していつも同じような光の入り具合になるところなど、再現性が高いからかもしれない。自分が気に入っていて機能性の高いもの(機能性のないものを持ち歩くのは非合理的だからしない)、たとえばカバンや腕時計など、同じものを常に身につけている理由も似たようなものだ。

 そこに目をやれば、そこにある。いつも同じ。私にとってはこれが「安心」というわけだ。