ところが、日本に持ち帰ったそのマーキングペンは、瓶容器とキャップがバキバキに割れ、ペン先のインクも乾燥して使いものにならない状態だった。現物は手元にないものの、米国視察の報告会で内田氏からマーキングペンの話を聞いた寺西化学工業の初代社長・寺西長一氏は、その場で「ぜひ開発させてほしい」と申し出た。

大阪市旭区にある寺西化学工業の本社大阪市旭区にある寺西化学工業の本社 Photo by M.F.

 1916年に創業した寺西化学工業は、筆記用インキやクレヨンなどを製造・販売しており、ペンの開発経験はなかったが、恐らく寺西氏は製品の構造がイメージできたのであろう。さらには、「これは絶対に次世代の筆記具になる」というひらめきと確信があったという。

 とはいえ、開発の苦労は並大抵ではなかった。

 最も頭を悩ませたのは、ペン先の構造だという。インクが上向きに吸い上がらないという根本的な問題に対し、山高帽に使われる羊毛素材を用いることで、ようやく解決の糸口をつかんだ。

 そのほか、染料や容器などの開発にも試行錯誤しながら、2年ほどの期間を経て、1953年4月、日本初の油性マーキングペン「マジックインキ」の発売にこぎつけたのである。なお、内田洋行と共同で開発・販売した経緯から、現在もマジックインキの商標権は内田洋行が所有している。

当初は販売担当が嫌がるほど売れなかった
転機となった出来事とは?

 満を持して世の中に送り出されたマジックインキだったが、発売直後はまったくといっていいほど売れなかった。当初の価格は1本80円。現在の貨幣価値に換算すれば2500~2600円相当になる。これは庶民にとってかなりの高額商品だった。

「大阪・難波のデパートなどでコンパニオンの女性を雇って店頭販売をしていたそうですが、誰もお客さんが振り向いてくれない。担当の女性が『こんな仕事は嫌だ』と言って辞めてしまうほど売れなかったと聞いています」

 日本に存在しなかった製品だけに、客に「何のために使うものなのか」が伝わらなかった。2度の値下げを経て1本50円になったが、それでも販売状況はすぐには好転しなかった。