本物の大島紬を求めて

 珍しくつれあいと一緒に奄美大島から徳之島へ出かけた。昔からの製法で自宅で機(はた)を織っている村を訪ね、泥染めの様子を見て歩いた。ハイビスカスの真赤な花の開いた陰に、木造りの機小屋がある。昼時のせいか娘さんの姿はなく、機だけがひっそりと、織りかけの布がそのままになっていた。

 ところが名瀬の店をのぞき歩いて驚いた。ほとんどが現代風の柄の大島紬(つむぎ)なのだ。花柄や扇、友禅風のさまざまな色を染めてある。「これが最近の流行です」と言われてがっかりした。昔ながらの藍や泥の単色物がほとんど見当たらない。あっても素材が一目で偽物とわかる。探し探してやっと奥から泥藍大島の幾何学模様、素材も昔ながらの絹を一つ持ってきてもらった。東京の半分とはいえ値は高い。旅先のことゆえ持ち合わせがない。つれあいの分を借りても駄目で借金をして帰ることにした。なにしろ、こういう昔からの美しいものにお目にかかることは滅多にないのだから……。

 大島紬の微妙に光る細い織り、染めた部分と染まらない部分の糸を組み合わせていくあの織り方は、大島に棲む、ハブの模様を真似たものだという。猛毒を持つハブのうろこのようにさまざまな模様で細く光る。それなのに友禅を真似た花模様では、すっかりそれが死んでいる。本物のハブを見てますますその感を深くした。ハブとマングースの決闘の口上を聞き、両者を分ける仕切りが上がるやいなや、直前まで客席をチョロチョロ見ていたマングースがハブの頭にすでに喰いついている様をながめながら、人間の造り出した手工芸品も、もとはといえば自然を写すことから始まったのだということを知る。その自然さを失い、人工的な作為だけになったものに私はどうも親しみが持てない。陶器でも漆器でも織物でも、土の香りや人の手のぬくもりのあるものが欲しい。

 最近は民芸の名を借りた偽物がまかり通る。ワラや木を使えば素朴というものではない。どこにでもある民芸品店、手を触れられないよう、とりすましてガラスケースに入ったかつての民具、どちらもゾッとする。手のぬくもりを知りたいものには手を触れられず、偽物は店先に威張って並ぶ、そして値段はバカみたいに高い。

 私のために土産を買うのも最近は並大抵のことではなくなってきた。だからこそ探し探して私のための土産を買う意味もあろうというものだ。もともとあまのじゃくの私のこと、欲しいものが少なくなってきたから、苦労して探して土産を買うようになったに違いない。それも他人のためではなく私のために土産を買う。どうやら病膏肓(やまいこうこう)、日常生活の中にも旅の匂いを持ち込みたくなってきたのだろうか。