ダジャレは知的なもの
無料の教材となるはず
ついに最終回を迎えてしまいました。自主的に回数に区切りつけたとはいえ、1年半、35回にわたり綴ってくるとさすがに、おなごのお尻…いや、お名残惜しいものです。
そんな記念すべきラストにふさわしいネタとして今回は、<教育としてのダジャレ論>を、スポーツサングラスします…いや、お送りします。
最後なので、この連載中何度となく述べてきたことを、総括の意味も込め、真っ向最上段から、あえて堂々と自信満々で、真上から目線で言い切らせていただきますと!
「ダジャレは知的なものである!あるあるあるある……」(←エコー)
そうなんです。ダジャレをナイスに使いこなせる人は頭がいいんです。僭越ながら断言させていただきますが、バカはダジャレを思いつけない! これは実際に口に出して言う言わないは別の話ですし、思いつこうとしても出ない人、ということですが。
このあたりについての論考は、連載開始当初に数回にわたり詳しく述べてあります。特にこのあたりご参照を。<第2回 ダジャレは「見立て」発想による知的で粋な作業 ダリもマグリットも国芳も>
そんな知的な、構造的思考で生み出すダジャレは、教育に取り込めば、子どもたちやもっと上の青年たちにとって必ずや有効な、無料の教材として機能してくれるはず。僕はいまの教育現場を見聞きしていないので、現状、どれぐらい<言葉遊び>が取り込まれているのかわかりませんが、もしうまく使われているとしても、もっともっと科学的に、若いうちから、笑いながら楽しみながら構造的思考を育むダジャレを有効に使っていければいいと考えます。