亀山城前に立つ明智光秀像 撮影:今泉慎一(風来堂)
信澄の父・信勝は二十数年前、信長との家督争いの末、謀反を企てたとされて清洲城で殺害されています。義父・光秀の力も得て、父の仇(かたき)をついにはらす時がやってきた、という筋立てなのでしょう――。
ところが、信澄は変の直後に大坂で落命。「光秀の娘婿=共謀では?」と疑心暗鬼になった織田信孝、丹羽長秀に討たれてしまうのです。信孝、長秀もまた、四国攻めのために大坂に滞陣していました。
一方、家康はわずかな兵を連れて地元・三河へと向かいます。服部半蔵の活躍もあり、「伊賀越え」を経て無事、三河へと逃げ帰りました。
では信澄黒幕説、家康黒幕説、あるいは共犯だった可能性は成り立つのでしょうか 。変直後の2人の行動はあまりに隙があり過ぎ、事後対応も場当たり的です。変を事前に知っていたなら、光秀の動きに呼応して、逆に信孝、長秀を討つぐらいでないと変です。
家康と信澄に
謀反を起こすメリットはあったか
第一、家康には信長を捨て光秀につく理由がなさ過ぎます。
家康は何十年も信長の忠実な同盟相手で、どんなにきつい状況でも信長を裏切りませんでした。その際たるものが三方ヶ原の戦い。
精強を誇った武田軍の矢面に立たされ、大敗を喫し、後世には「馬上で脱糞した」との逸話まで残るほどの屈辱を味わっても、手切れしなかったのです。
徳川家康三方ヶ原戦役画像(出典:Wikimedia Commons、徳川美術館所蔵、パブリックドメイン)







