<1582年・本能寺の変前後の動き>
◆5月15~17日
光秀、安土城での家康の接待役を務めるも途中で任を解かれ、中国攻めの援軍を命じられ、坂本城に戻る
◆5月26日
光秀、中国攻め準備のため丹波・亀山城へ
◆5月27日
光秀、戦勝祈願で京都・愛宕神社に参る。しきりにくじを引いたという
◆5月28日
西坊威徳院にて連歌会。光秀の発句「時は今 あめが下(した)しる 五月哉(さつきかな)」。同日中に亀山城へ戻る
◆5月29日
信長、本能寺に入る
◆6月1日 22時頃
光秀、1万3000の兵を連れ亀山城を出発
◆6月2日 未明
桂川を越えて京へ向かう。光秀がこのころ重臣たちに信長襲撃の意図を明かしたとされる
◆6月2日 4時頃
光秀が本能寺を急襲し信長切腹。二条御所で信忠を討つ
◆6月2日 16時頃
光秀、安土城へ向かうが山岡景隆が瀬田の唐橋を落とし足止め
◆6月4日
光秀、唐橋を修復し進軍、安土城に入城
◆6月8日
光秀は坂本城へ。安土城には明智秀満が残る
◆5月15~17日
光秀、安土城での家康の接待役を務めるも途中で任を解かれ、中国攻めの援軍を命じられ、坂本城に戻る
◆5月26日
光秀、中国攻め準備のため丹波・亀山城へ
◆5月27日
光秀、戦勝祈願で京都・愛宕神社に参る。しきりにくじを引いたという
◆5月28日
西坊威徳院にて連歌会。光秀の発句「時は今 あめが下(した)しる 五月哉(さつきかな)」。同日中に亀山城へ戻る
◆5月29日
信長、本能寺に入る
◆6月1日 22時頃
光秀、1万3000の兵を連れ亀山城を出発
◆6月2日 未明
桂川を越えて京へ向かう。光秀がこのころ重臣たちに信長襲撃の意図を明かしたとされる
◆6月2日 4時頃
光秀が本能寺を急襲し信長切腹。二条御所で信忠を討つ
◆6月2日 16時頃
光秀、安土城へ向かうが山岡景隆が瀬田の唐橋を落とし足止め
◆6月4日
光秀、唐橋を修復し進軍、安土城に入城
◆6月8日
光秀は坂本城へ。安土城には明智秀満が残る
信長のいた本能寺と、光秀のいた亀山城はわずか数時間の距離にあった 国土地理院「地理院地図」を基に作成
5月27日の戦勝祈願はあくまで、中国攻めのためとも考えられますが、「しきりにくじを引いた」というエピソードが気になります。中国攻めの現場では、秀吉が備中高松城を水攻めにしており、落城寸前。城攻めそのものは勝利目前の状況でした。
光秀は信長が本能寺に来る前日に京を離れていますが、誰もが気になるのが「時は今」の句。もし、この時点で信長を討つことを決意していたなら、見張り役を残しておいたでしょう。京と亀山は峠ひとつ挟んだ目と鼻の先。状況を伝える伝令が届き次第出発できるよう、軍備を整えていてもおかしくありません。
いずれにせよ、光秀の各日の行動は概ね、間違ってはいないものと考えて良いと思います。
大河ドラマが匂わせる
家康と信澄の「黒幕説」を検証
では、数ある黒幕説を順に検証してゆきましょう。まずは『豊臣兄弟!』の第27回の予告編で視聴者が騒然とした「家康黒幕説」。家康は本能寺の変の勃発時、堺にいました。同じく大阪にいたのが津田信澄、妻は光秀の娘です。







