信澄も、過去の遺恨はあったとはいっても、織田家中では厚遇されています。1581(天正9)年の京都御馬揃(ぞろ)えでは、信長の三男・信孝に続く高い位置で参加しています。
光秀の下克上に乗っかるより、このまま信長の元にいた方が、どうみても大きなメリットがあります。自身がトップを獲れるならともかく、下克上が成功しても、従う相手が光秀に代わるだけなのですから。
朝廷黒幕説の根拠は?
当時の天皇と信長の関係
他の黒幕説も検証してゆきましょう。よく語られるのが、「朝廷の意を受けて動いた」という話です。
光秀は京都奉行を務めており、朝廷とも懇意でした。
ただ、近年の研究では、当時の正親町天皇と信長の関係は良好だったとみられています。上記に挙げた京都御馬揃(ぞろ)えは天皇の御前で行われていますし、1575年に権大納言兼右近衛大将に任じられています。つまり、持ちつ持たれつ。そもそも、朝廷主導で世の動きを変えられるなら、戦国時代がここまで長く続いていなかったはず。
正親町天皇尊影(出典:Wikimedia Commons、泉涌寺所蔵、パブリックドメイン)
また、もしバックに朝廷がついていたなら、変後の光秀はそれを「錦の御旗」として掲げていてもおかしくないのですが、そういうこともない。結果、想定外に得られた味方が少なく、山崎の戦いで秀吉に大敗を喫してしまいます。
足利義昭黒幕説はどうでしょうか。京を追われたとはいえ、肩書上はこの時もまだ「征夷大将軍」でした。光秀はもともと、義昭の従者として織田家に入っています。ただ、もし義昭が黒幕であれば、当時、備後・鞆(とも)(現・広島県福山市)にいた義昭の後ろ盾だった毛利家に、話が通っていなければヘンです。







