まず、光秀をそそのかして「天下人」信長を討たせ、直後にその光秀を討つことで自身が「天下人」の座を手中にする。そんな深謀遠慮が秀吉にあった、という説です。
これは数ある黒幕説の中でも、最も荒唐無稽なものかもしれません。確かに、本能寺の変後の秀吉の動きは、驚異的なほど迅速かつ的確でした。ただ、それはあくまで「結果的に」そうなったに過ぎません。
毛利家との和議、光秀になびきそうだった諸将の説得、中国大返し。どの決断も実に見事ですが、あくまで個別の対応。そこにいくつかの「幸運」が後押しした結果、秀吉が後継者として、一歩先んじることができただけです。あらかじめ一本のストーリーがあった、というのはさすがに無理があるでしょう。
備中高松城攻めの秀吉本陣・石井山陣 撮影:今泉慎一(風来堂)
だいたい、この時点で織田家の有力な方面軍司令官の一人として、中国地方攻略を任されていました。そんな面倒くさい手を使う必要はなかったはずです。「いずれワシが天下を……」という野心はあったかもしれませんが、リスクが高過ぎます。
黒幕がいなかったとしたら
光秀はいつどんな理由で決意したか
結局、月並みな結論になってしまいますが、黒幕はおらず「光秀単独犯説」が一番、説得力があるように思えます。結局、光秀はいつ、どんな理由で「信長を討つ!」と決意したのか。
光秀は家臣になってから何度か、信長によって苦しい立場に置かれることがありました。
1574(天正2)年、東美濃に武田勝頼が侵攻。「明知軍記」によれば、光秀の叔父とされる光安が城主を務めていた明知城の救援に向けて信長が進軍しますが、結局撤退し、明知城は落城します。
また同書によれば、1578(天正6)年から翌年にかけての八上城の戦いでは、光秀が捕縛し連行した敵将、波多野三兄弟が、信長の命で磔(はりつけ)に処されたとされています。そして、先に挙げた対長宗我部戦略での手のひら返し。







