中国出陣を目前に、わずか100人で本能寺へ
その後も家康一行への接待は続き、信長は幸若舞や能を披露し、家康の家臣たちとも食事を共にするなど、最大級の歓待を行いました。家康と穴山梅雪には京都、大坂、奈良、堺などの見物まで勧める一方、自らは5月29日、わずか100人ほどの供回りを連れて、京の本能寺へと入りました。
大軍を率いていなかったのは、京都で兵を集めてから中国へ出陣する予定だったためです。一方の光秀は、坂本城から丹波亀山城へ移り、およそ1万3000の兵を集結させていました。
運命の前日、本能寺で過ごした最後の一日
6月1日、信長は本能寺で津田宗及や今井宗久らを招いた茶会を開催し、午後には近衛前久や九条兼孝ら公家衆と面会して、「近く中国へ出陣する」と語っています。さらに夕方には嫡男・織田信忠が本能寺を訪れ、父子で酒を酌み交わした後、宿所の妙覚寺へ戻っていきました。
同じ頃、光秀は亀山城を出発します。後世有名になった「敵は本能寺にあり」という言葉も、この時に発せられたとされていますが、これも江戸時代の軍記物が元ネタであり、実際に口にしたかどうかは分かっていません。
「豊臣兄弟!」では、信長の甥で光秀(左)の娘婿にあたる織田信澄(右、演:緒形敦)が本能寺の変の黒幕として描かれていた (C)NHK







