武田氏を滅ぼし、「天下統一」は目前
3月には、甲州征伐で武田勝頼が天目山で自害し、名門武田氏が滅亡しました。信長は甲府に入り、新たな支配体制を整えた後、4月に安土へ帰還します。この遠征中には、徳川家康による富士山周辺での豪華な接待も行われました。
この時点で、北条は織田方と友好関係を築き、東北の伊達、最上、蘆名らも信長に恭順の姿勢を示していました。越後には上杉景勝が残るものの、柴田勝家が対峙しており、大きな脅威ではありませんでしたし、西国の毛利も羽柴秀吉によって追い詰められ、四国の長宗我部元親に対しては討伐が計画されていました。
信長にとって、天下統一はまさに目前まで迫っていたのです。
明智光秀が任された重要な接待役
5月になると、武田征伐で功績を挙げた徳川家康と穴山梅雪を安土城へ招き、大規模な饗応が催されました。この接待役に抜擢されたのが明智光秀です。重要な外交を任されていたことからも、この時点で信長が光秀を厚く信頼していたことがうかがえます。
徳川家康(演:松下洸平)は安土城で信長の接待を受ける (C)NHK
ところが、接待の最中に備中高松城を包囲していた秀吉から、信長への出馬要請が届きます。そこで信長は光秀に中国方面への先遣を命じ、光秀は饗応役を離れて坂本城へ戻ることになりました。
ちなみに、家康接待の際に光秀が出した魚が腐っていたために信長に殴られ蹴られ、それを恨みに思って本能寺の変を起こしたのだ、という有名な「腐った魚事件」も、ルイス・フロイスの「信長が光秀と密談し、揉めて足蹴にした」という記述をもとに、江戸時代の軍記物が話を膨らませたものであり、現在では本能寺の変の直接の原因とは考えにくいとされています。







