人生に「やりたいこと」って必要?→答えは意外とシンプルだった〈風、薫る第81回〉

やりたいことがなくても目一杯生きる

 幼い子どもへの愛情を感じるからこそ、母への思いも募りそう。

 直美はさっそく瑞穂屋へ卯三郎の話を聞きにいく。手前には犬張り子が飾ってある。これは出産のお守り。母子の情を想起させる小道具がさりげなく選ばれている。

 卯三郎の証言は、ますます、文が直美の母と確信させるものだった。

 文は、明治元年(1868年)、卯三郎にはじめて横浜で会ったとき、詐欺を仕掛けてきたという。

「私、詐欺まがいのことをしたことがあります」

 直美は文に共感を覚える。

「お金持ちと結婚しようと。相手も結婚詐欺師だったので、うまくいきませんでしたが」

 それを聞いた卯三郎はつい笑ってしまう。

 詐欺なんてひどいとは思わず、生きるために必死だったのだろうと文のことを理解できる直美。

 そこまでして生きようとしてたのに、やりたいことが何もないと文が言うのはなぜだろう。

「彼女なりに目一杯生きているんじゃないですかねえ」と卯三郎。

 その頃、文は、カーテンを開け、なかの化粧台の前に座っている。そこには例の髪飾り。

 やりたいことというと、当時の女性としては、結婚し子どもを育てることや、何らかの夢をもって職業に就くということだろうか。この頃「やりたいこと」という、いまのような概念はあったのだろうか。江戸時代までは親ガチャならぬ、生まれたときに武士とか農民とか、やらなければならないことが決まってしまっていたわけだから。

 とりわけ男女差があった女性の場合は、家のために嫁ぎ、子どもを生むということがほぼ決められていた。言葉は悪いが、ただそれだけだったのだ。いまでは信じられない。

 やがて「やりたいこと」の概念が一般に広がりはじめていまがある。

「やりたいこと」がなくても、植物だって動物だってただ生きている。人間だって基本はそうで、そこに「やりたいこと」という意志が後付けされた。生きているから、おなかも減るし、できるだけ体調や気持ちをよくしたくなるだろう。ただそれだけのことがかけがえのないことなのだと思う。

 高い目標があってもなくても、誰もが生きる権利や自由がある。自分なりに「目一杯生きる」それで十分だ。