中国大返しの日程~秀吉軍は1日40kmペースで行軍していた!?

 6月4日、秀吉は毛利氏と講和を成立させ、高松城主・清水宗治の切腹を見届けます。

秀吉は、光秀が謀反を起こしたと知るやいなや毛利と交渉、講和を成立させる (C)NHK秀吉は、光秀が謀反を起こしたと知るやいなや毛利と交渉、講和を成立させる (C)NHK

 そして翌5日、いよいよ京への進軍を開始しました。その行程は驚くべきものです。

・6月5日 備前・沼(現在の岡山市北区)に到着
・6月6日 約78キロを移動して姫路城へ
・6月7~8日 姫路城で軍勢を再編成
・6月9日 姫路を出発し明石へ
・6月10日 淡路・洲本城の反乱鎮圧を命じ、自軍は兵庫へ
・6月11日 尼崎
・6月12日 富田
・6月13日 山崎で明智光秀と決戦

 総移動距離は約200~230キロともいわれます。実質6日ほどでこの距離を進んだことになり、平均すれば1日約40kmもの行軍です。しかも2万人規模の軍勢を率いての移動だったことを考えると、その困難さは想像を超えるものがあります。

秀吉は2万人規模の軍を率い、猛スピードで京を目指す (C)NHK秀吉は2万人規模の軍を率い、猛スピードで京を目指す (C)NHK

柴田勝家も驚異的な速さで移動していた

 もっとも、中国大返しだけが特別に速かったわけではありません。

 当時、北陸で上杉景勝と戦っていた柴田勝家も、本能寺の変を知ると約3日で180キロほどを移動し、居城の北ノ庄城へ戻っています。単純計算では1日60キロ近い行軍となり、速度だけなら秀吉以上です。

北陸で上杉氏と戦っていた柴田勝家も、本能寺の変を知ると急ぎ居城へ戻った (C)NHK北陸で上杉氏と戦っていた柴田勝家も、本能寺の変を知ると急ぎ居城へ戻った (C)NHK

 では、何が違ったのでしょうか。

 勝家は、北ノ庄城へ戻って態勢を立て直すことが目的でした。一方の秀吉は、長距離を移動した直後に、山崎で決戦を迎えています。

 つまり、中国大返しの真価は「速く移動したこと」ではなく、「長距離を移動した軍勢を、そのまま戦える状態で戦場へ投入したこと」にあるのです。