山崎付近の地形。円明寺川(現・小泉川)を挟んで、秀吉軍と光秀軍が対峙した。赤枠が秀吉の本陣だったとされる宝積寺、青枠が光秀の本陣だったとされる境野1号墳の場所。合戦の場所は西に天王山、東に淀川が流れる狭隘な地形だ。光秀は本陣の北東にある勝竜寺城を拠点としていた。国土地理院「地理院地図」をもとに加工(スケールバー300m)拡大画像表示
山崎付近の地形。合戦の舞台となった山崎は、東に淀川、西に天王山が位置する狭隘な地形だ。国土地理院「地理院地図」をもとに加工(スケールバー1km)拡大画像表示
明智光秀本陣跡。全長58mの前方後円墳、境野1号墳のあたりに陣を敷いたと推定されている 撮影:今泉慎一(風来堂)拡大画像表示
一方の秀吉軍は、天王山の南麓を本陣に、弟の秀長、黒田官兵衛、中川清秀、高山右近らを前線に配します。軍勢は、光秀方が1万から1万3000、秀吉方が説にもよりますが約4万ともいわれます。数の上では圧倒的に光秀が劣勢。
ただし先に見たとおり、幅300mの隘路(あいろ)へと敵を押し込めれば、光秀に勝機は見えてきます。秀吉軍の陣が、そこからやや前方のひらけた場所まで飛び出す形になってしまったのは、光秀にとって誤算だったかもしれません。
ですがそれは、最前線の秀吉軍にとって「背後の隘路(あいろ)が渋滞する」ことでもあります。スムーズな援軍投入が難しくなれば、数の差による不利は減じます。
ところが、光秀はあっけなく秀吉に敗北します。開戦からたった数時間後には、光秀軍が敗色濃厚となり、離脱者も続出しました。兵力差があったとはいえ、地の利を掴んでいたはずなのに……。
兵力差がここまで開いた
まさかの理由
光秀の目論見がなぜ外れたのか。それを検証する前に、なぜ両軍の兵力差がここまで開いてしまったのかをみておきましょう。
まず、光秀は京の治安のために一定数の人員を配置せねばならず、戦力が分散していました。本能寺で信長を打倒した光秀は、公卿の吉田兼見の訪問を受けています。吉田兼見の訪問理由は、京の治安を維持する要請だったといわれます。その際、誠仁親王からの贈り物も受け取ったとも。
吉田兼見(1535₋1610年)の肖像画 京都大学附属図書館/Wikimedia Commons(パブリックドメイン)







