これで光秀陣営に混乱が広がり、あれよあれよという間に総崩れしていきます。光秀も本陣の背後にあった勝龍寺城まで退却しますが、そのころにはすでに、兵を大きく減らしていました。
勝龍寺城本丸。周囲にも曲輪があったが宅地化し遺構はない 撮影:今泉慎一(風来堂)拡大画像表示
勝龍寺城の各曲輪間は水堀が張り巡らされていた 撮影:今泉慎一(風来堂)拡大画像表示
余談ですが、勝負の最重要局面を“天王山”と表現しますが、これは山崎の戦いが由来。しかし山崎の戦いでは、天王山が表舞台に出る幕もなく、羽柴軍の圧勝でした。
以上のように、光秀には合戦中もそこに至るまでのプロセスでも、いくつかの誤算がありました。しかし、それは結果論でもあります。
本能寺の変では想定外の成果をあげられたものの、これもまた結果論。一定の戦略はあったとしても「勝負は時の運」。でも、決断し、実行してみなければ、その「運」も手に入りません。
山崎の戦いにおいても、寡兵であった光秀が、大軍の羽柴軍にジャイアントキリングを起こしていた可能性がなかったとは言い切れません。そして、勝つためにやれることは全てやった。山崎の戦いでの光秀は「人事を尽くして天命を待つ」という気分だったのではないでしょうか。残念ながら、本能寺の変のような結果はついてこなかったのですが。
光秀誕生の地と伝わる、岐阜県可児市の明智城本丸に立つ明智光秀像 拡大画像表示
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