朝廷ともつながりがあったとされる光秀が、この要請を断れるわけはありません。光秀は貴重な戦力の一部を、最終決戦から切り離さねばならなかったのです。
本能寺の変には「朝廷黒幕説」があります。信憑性は怪しいのですが、もしも、この誠仁親王からの進物の中に、光秀の一連の信長討伐が朝廷の指示によるものであると主張できる書状でもあれば、光秀は錦の御旗を立てて「我こそ正義」と宣言できたかもしれません。
そうすれば、周辺の武将が光秀の動きに呼応していた可能性もあります。自軍の一部を京都警備に割いていても、援軍によってそれを上回ることができれば……。
残念ながらそれが叶(かな)わなかったのは周知の通り。細川藤孝・忠興親子、筒井順慶など、光秀と近しい関係だった武将たちも、結局は味方になってはくれませんでした。
秀吉は開戦に間に合わなかった?
新公表の書状に書かれていたこと
圧倒的な兵力差とともに、山崎の戦いは戦前から秀吉有利だった、とする説の有力な裏付けが、秀吉の「中国大返し」です。本能寺の変を知ってからわずか10日ほどで200kmもの距離を踏破。その迅速な行動が秀吉方を大いに勇気づけ、勢いを得たのだと。
しかし実は、秀吉は現地に遅参していたという資料が最近公表されました。それが、2026年3月13日『朝日新聞』の記事でも取り上げられた、中京大学が所蔵する「6月13日付、小寺職隆・生駒七郎右衛門尉宛、羽柴秀吉書状」です。
山崎の戦いは13日に始まり、短時間で決着がつきます。同日に記されたこの書状は、山崎から10㎞以上離れた陣中で書かれたもので、「翌日、山崎に向け出陣する」との内容でした。つまり、大将は合戦が始まった時点では現地に着陣していなかったことになる。だとすると、少々事情が変わってくるように思えます。
この書状を信じるならば、少なくとも「圧倒的多数の上に、大将が驚異的なスピードで現地に駆けつけ、大いにモチベーションも上がっていた」とは言えないのではないでしょうか。







