大木:昭和17(1942)年の大晦日の御前会議で、昭和天皇自身がもう撤退だと決めましたね。それで翌年の1月下旬から2月上旬に退却実行と決まった。この撤退作戦自体は、成功しました。
保阪:ケ号作戦。「ケ」の由来は「捲土重来」ですね。ガダルカナルからの撤兵は陸海軍の共同作戦でしたが、たしかにうまくいきました。米軍が気づいたときには「もぬけの殻」だった。とはいえ、陸海で協定を作ったりしなければならなかったため、無駄な時間もかかっています。その間に、現地の兵はずいぶん亡くなったことでしょう。
瀬島はモスクワ訪問の
目的を語らなかった
戸高一成(以下、戸高):海軍の方々はだいたい瀬島を嫌っていました。史料調査会の会長だった関野英夫さんも、研究会で瀬島の名前が出ただけで、即座に「あいつは嘘つきだ」と言っていました。
保阪:瀬島の疑わしい言動をさらに言うと、瀬島は昭和19(1944)年12月にモスクワに行っています。この時、瀬島は「クーリエ(注1)(外交伝書使)」として行ったのだと、半藤一利(編集部注/戦史研究家)さんと私は推測しています。ソ連側に提示する何か、あるいは昭和20(1945)年6月にソ連の仲介で和平交渉に乗り出そうという動きがありましたが、もっと前に何らかの意思表示をしていたのではないかと。
しかし、瀬島はこの時の訪問について取材時にも頑なに話しませんでした。恐らく、陸軍や国家にとってではなく自分にとって都合が悪かったのでしょう。そうでなければ、「瀬島さん、クーリエとして行ったんじゃないですか?」「そうだよ、クーリエで行った。あの時は外交官のふりしなきゃいけなかった」程度のことは言えるはずです。
取材をしてきて分かってきたのは、瀬島が巧みに話を避けるのは自分に都合の悪い話の時です。瀬島がモスクワに行く半年ほど前にも、クーリエで金子昌雄(注2)が行きましたが、彼はシベリア鉄道で殺されている。
(注1)外交伝書使。国家間で正式な文書や国書を届ける役職。外交交渉の意思伝達を担った使者。安全な文書輸送と儀礼的役割を兼ね備えた存在として機能。
(注2)1908~1945年。陸軍大佐。士候42期。1945年5月1日、クーリエとしてロシアからの帰途、怪死。







