瀬島龍三氏 Photo:SANKEI
戦時中は陸軍参謀に就き、戦後は伊藤忠商事会長や中曽根康弘首相の顧問を務め、辣腕をふるった瀬島龍三。昭和の参謀として財政界に大きな影響を与えたいっぽうで、「彼は嘘つきだ」と唾棄する者も多くいるという。瀬島が言葉巧みにはぐらかし続けたタブーに迫る。※本稿は、現代史研究家の保阪正康、日本海軍史研究家の戸高一成(高ははしごだか)、現代史家の大木 毅『虚構の昭和史 海軍善玉論、石原莞爾名将論の陥穽』(角川新書)の一部を抜粋・編集したものです。
ガダルカナル島からの撤退は
瀬島龍三の手柄だったのか?
大木毅(以下、大木):昭和18(1943)年5月の「アッツ島玉砕」当時の陸軍参謀本部作戦課長真田穣一郎については、現在のところ目ぼしい伝記類もなく、十分に評価が定まっていませんね。謀略や負け戦、不祥事に絡んでちらほら登場する人で、感心な人物ではないようですが。
保阪正康(以下、保阪):真田は北海道の旭川の出身です。参謀本部の作戦課長や第一部長として幅をきかせていました。ガダルカナル島を撤退する時の作戦課長ですね。
大木:東條英機首相の子分というか、腹心と言っていい。東條に忖度して、いろいろ重要な場面で判断を誤っています。
保阪:昭和17(1942)年12月、瀬島龍三が真田に随行してガダルカナルの視察に行っています。補給がままならなくなり、最前線が既に「餓島」と化してしまっていた頃です。もう島の奪還の可能性はまったくないと言ってよかった。
瀬島は帰路の飛行機で、真田に「閣下、ぜひ撤退させなければいけません」と言った、だから撤退が決まったのだと、私がインタビューしたときに言いました。自分が言わなければそうならなかったという言い方でした。
私が「瀬島さんが言わなくたって、あの時は皆そう思っていたのではないでしょうか。それこそ撤退しなければおかしい事態ではないですか」と質すと、彼は「いや、それは早ければ早いほどいいのだ」と言い繕ったものです。







