大木:ところが、高木惣吉は主戦派と目された第一委員会のメンバーだった。半藤さんは、のちにそれを知って、「海軍善玉論」に疑問を抱いたということでした。高木惣吉は、まさに、米内光政や山本五十六に代表される、海軍の心ある人々は戦争に反対だったという議論を広めた人ですから。

戦犯裁判がちらつくなか生まれた
責任逃れのためのシナリオ

戸高一成(以下、戸高):海軍としての「善玉路線」、潜在的な戦争責任回避運動のようなアクションは、終戦の時からすぐに始まっていたわけです。

 海軍省が第二復員省(編集部注/1945年12月に設置された、海軍軍人の復員等を主管する中央省庁の1つ)になった時に、さっそく始まりました。ただ、この二復でまとめた戦史は、まだきちんとオリジナルの資料や戦闘詳報に準じていたのです。

 第二復員省で作った「ミッドウェイ作戦」は完全に部内用ですから戦闘詳報を参考にしています。それゆえ、「ヨークタウン機搭乗予備少尉の陳述」などと記述し、捕虜を審問したことを書いているのですが、ほぼ同じタイミングで出された淵田美津雄・奥宮正武共著の『機動部隊』『ミッドウェー』(いずれも日本出版共同、1951年)以降になると、必要に応じてメイキングを施すようになっていきました。

「海軍善玉論」に通じる、帝国海軍の歴史をきれいに残さなければという、能動的な動きが見られるようになるのは、昭和26、7(1951、52)年ぐらいからではないかと思います。

大木:そこにたどり着くまでの流れにも、いくつかの水源があるのではないでしょうか。まだ戦争に勝つつもりでいた頃は、ミッドウェイでの負けをどうやって外に説明しようかとか、都合の悪い部分を糊塗することだけを考えていたのでしょうが、いよいよ敗戦必至となってくると、いかにして海軍の立場を正当化し、弁護するかという方向に動いていったように思います。

戸高:そうですね。それと相まって、やはり戦犯裁判対策を考えなければなりませんでした。海軍自体に責任はあまりないのだというイメージを、アピールしなければならないということもあったのでしょう。

保阪:戦争に負けそうだという時点から、その言い訳と責任逃れのシナリオを考え始めるとは、まさに「官僚」ですね。