海軍がひた隠しにした
アメリカ人捕虜殺害の罪
大木:豊田隈雄(注5)さんは、戦犯裁判で証言する海軍軍人のプロンプターのような役割をしていましたね。豊田さんのところに情報を集中して、証言の方針を決める。「誰々はここまで喋ったから、お前の証言ではここまで言ってもいいけど、それ以上言うな」と、話す範囲と内容を指導していたそうです。
保阪:私は高松宮日記(編集部注/昭和天皇の弟である高松宮宣仁親王が記した直筆の個人的記録。戦前、戦中の皇室や海軍の動きを知る貴重な歴史資料)が発見されたときに、豊田さんと何度も会って、その背景を聞きました。自宅にも行きました。これほど冷静に話す軍人は見たことがなかったです。
戸高:要するに、もうアメリカに知られていることは諦めるけれども、知られていないことは黙っていようということです。
たとえば海軍として徹底的に隠したのは、ミッドウェイ海戦時に何人もの捕虜を殺していることでしょう。
ミッドウェイ海戦では、負け戦とはいえ、アメリカの飛行機を撃墜しています。だからそのパイロットたちがたくさん海に浮いていたわけです。それを艦に拾い上げて、散々訊問した後に全員殺しています。これは、戦犯裁判では間違いなく有罪になる案件です。
しかし、終戦直後はまだアメリカにばれていなかった。だから、それに関してまず隠さなければという事情があって、証言台などで話を合わせるためのアクションが起きたのではないか。
保阪:東條英機内閣が出した「戦陣訓」の中の「生きて虜囚の辱めを受けず」という言葉が、そこにも影響していたことでしょう。この捕虜殺害の件を明るみに出したのは、澤地久枝の『滄海よ眠れ』でした。
海の上での蛮行は
人目につきにくかっただけ
大木:戦犯対策としても、戦後へのイメージ戦略としても、海軍が図った隠蔽・宣伝工作はかなりうまく行ったと言っていいでしょう。海軍からはA級戦犯として極刑に処された人は出ませんでしたし、戦後の割と早い時期から、昭和海軍像は良い方向に再構築されました。
そして、昭和40年代に、「阿川五十六」(編集部注/阿川弘之著『山本五十六』のこと。阿川は海軍経験のある作家、評論家)や司馬遼太郎の『坂の上の雲』で、明治海軍の栄光を重ね合わせて、「善玉」として定着させた。
半藤さんが「海軍善玉論」という言葉を使ったのは、昭和も末になってからのことですが、今でも何となく世間一般で、海軍は穏健派、知性派だというイメージが残っていますよね。
『虚構の昭和史 海軍善玉論、石原莞爾名将論の陥穽』(保阪正康、戸高一成、大木 毅、角川新書)
戸高:戦後に撮られた映画でも、海軍関係の作品は何となく恰好よく映されている傾向がありました。陸軍関係の作品だと、とりあえず兵隊は朝から晩まで怒鳴られ、殴られているような表現が目立ちます。
保阪:陸軍の内務班に関する暴露話は、たしかにひどいものばかりですからね。そしてそれは、陸軍生活を体験している司馬遼太郎や松本清張のようなベストセラー作家が書いたり語ったりして、それに尾ひれが付く形で有名になりました。
松本清張の『遠い接近』(光文社、1972年)という小説は、陸軍の内務班で受けた恨みを戦後に晴らすという話です。しかしながら、海軍だって内実は似たり寄ったりです。
戸高:海の上でやっているので、民間人の目には触れなかっただけです。
(注5)1901~1995年。海軍大佐。海兵51期。海軍省人事局第一課、駐独海軍武官補佐官。戦後、第二復員省、厚生省などに勤務。著書『東京裁判余録』(泰生社、1986年)。







