模倣しにくい「暗黙知」としての顧客体験

 では、なぜ顧客体験が競争力になり得るのだろうか。経営学では、製品やサービスがもたらす価値を、機能的価値と情緒的価値に分けて考えることがある。機能・性能は数値や言葉で表しやすく、広く共有されやすい。そのため、優れた機能が生まれても、やがて市場に普及し、価格競争が起きやすい。このように言語化し、共有しやすい知識を「形式知」という。

 一方、情緒的価値は、「何となく気持ちよく使える」「自分のことを理解してもらえた」「困ったときに安心できた」といった感覚に関わる。数値では測りにくく、言葉だけでは説明し尽くせない。先に述べた体験価値も情緒的価値の一つである。また、このような移転が難しい知識や感覚は「暗黙知」と呼ばれる。

 顧客体験には、この暗黙知的な性格が強い。制度や特典の内容は外から確認できても、担当者がどのように話を聞き、どのタイミングで提案し、社内外の関係者とどう連携するかまでは簡単にコピーできない。顧客に安心感を与える言葉の選び方や、想定外の依頼に応じる判断力も、マニュアルを用意するだけでは身に付かない。

 だからこそ、優れた顧客体験は持続的な差別化につながる。それは広告でつくられたイメージだけではなく、社員の判断や組織の連携によって、顧客との接点で繰り返し生み出される価値だからである。機能的価値は模倣困難性が低く、参入障壁が低くなるだけでなく、顧客が容易に比較できるので、価格だけで商品やサービスを選ぶコモディティ化が起きやすい。一方で、暗黙知的な情緒的価値や体験価値は、模倣困難性が高く、コモディティ化を回避しやすく、競争優位の源泉となる。

30年以上のロイヤルティを生んだ出来事

 こうした暗黙知的な価値が、実際に顧客との長期的な関係へつながることを示すため、少し私事を挟みたい。筆者はアメリカン・エキスプレスのヘビーユーザーだが、その原点には学生時代の米国旅行で同社に助けられた経験がある。

 ワシントンD.C.からバージニア大学へ向かう途中、激しい頭痛に襲われた。当初は航空性中耳炎と診断されたが、後年になって、群発頭痛の発作期に入っていたことが分かった。片目の奥をえぐられるような激痛が毎日決まった時間に起こると表現される、極めて重い頭痛である。さらに、大切な荷物の入ったスーツケースまでロストバゲージになり、旅行を続けられる状況ではなくなった。

 このとき、病院の手配や支払い、帰国方法の検討などを支援してくれたのが、父の家族カードとして持っていたアメリカン・エキスプレスの海外コンシェルジェ・サービスだった。激しい発作で自分では十分に動けない中、担当者は必要なことを一つずつ確認し、帰国に向けた選択肢を整えてくれた。

 特に記憶に残っているのは、手配の正確さだけではない。病床で言葉もままならず、心細い学生を安心させようとする温かい言葉である。何を手配してもらったかは説明できても、そのときに感じた安心感を数字で表すことはできない。それはまさに、言葉では説明し尽くせない体験価値だった。

 以来、筆者はアメリカン・エキスプレスを30年以上使い続けている。一度の優れた顧客体験が、長期にわたる信頼とロイヤルティを生む。この経験は、体験価値が企業の収益やブランドに結びつく仕組みを端的に示している。