量的な成果と体験価値は同じではない
以上の数字は、会員獲得と利用促進という面での成果を示している。ただし、会員数や利用額が増えたことと、一人ひとりの体験価値が高まったことは同じではない。ここに、筆者が指摘したい効果と効率のトレードオフがある。多くの顧客へ効率よく特典を提供することは事業の成長に必要だが、顧客ごとの事情に合わせた効果的なサービスには、担当者が話を聞き、考え、判断する時間が必要になる。
あるメーカーの品質担当役員から聞いた話なのだが、修理や相談を受けるメーカーの相談窓口であるコールセンターには、「規模と品質のジレンマ」があるという。コールセンターに対する不満の一つは、電話のつながりにくさだ。トラブルが起きていて、ただでさえ不愉快なときに、電話がいつまでもつながらなければ不満はさらに大きくなる。
そのため、サービス向上には、まず電話がすぐにつながることが大切になる。待ち時間の短縮だけを考えるなら、外部のコールセンター事業者に委託し、大量のオペレーターを配置すればよい。しかし、効率化を進めると、対応はマニュアル中心になりやすく、想定外の相談に応じにくくなる。反対に、熟練した担当者だけが丁寧に対応すれば質は高まるが、処理できる件数が減り、電話がつながりにくくなる。このジレンマの中で、効果と効率のバランスを取る必要がある。
アメリカン・エキスプレスにも同じ問いがある。トラベル・クレジットや無料宿泊は金額で価値を示しやすく、利用を促す効果も測りやすい。しかし、それらは機能的価値に近い。顧客がプラチナ・カードに求めているものが、特典の合計金額だけでなく、コンシェルジェの質や、困ったときに頼れる安心感だとすれば、利用額の拡大だけでは体験価値の向上を証明できない。
だからといって、量的な拡大を否定する必要はない。課題は、拡大する顧客基盤に合わせて、人材育成、権限設計、情報共有、サービス体制への投資も増やし、コンシェルジェに象徴される組織能力を維持できるかである。量の拡大と質の維持を同時に実現することが、次のチャレンジになる。
筆者が30年以上前に受け取ったのは、単なる手配の便益ではなかった。困ったときに状況を理解し、組織として支えてくれたという体験である。新規口座数や利用額という短期的な成果を、同じような長期の信頼へ転換できるか。アメリカン・エキスプレスのプラチナ戦略の成否は、現時点ではまだ分からない。
しかし、量と質のバランスを取りながら、優れた体験価値を生み出す力を組織能力として磨こうとする取り組みは、日本のサービス産業にも重要な示唆を与える。日本のサービス産業では、「おもてなし」という言葉の下で、高いサービス品質が現場の個人の努力や献身に委ねられていることが少なくない。その場合、優れた対応が一部の担当者の個人的な能力にとどまり、企業全体で再現できる組織能力として蓄積されにくい。
今後、日本のサービス産業が体験価値を高めていくためには、個人の努力だけに頼るのではなく、人材育成、権限設計、情報共有、部門間の連携などを通じて、優れたサービスを組織として生み出す能力を高める必要がある。ただし、その過程では、より多くの顧客にサービスを届ける量的な拡大と、一人ひとりに対するサービスの質をどう両立するかという難しい経営課題に必ず直面する。この点に注意しながら組織能力を構築することが、日本のサービス産業にも求められている。
(早稲田大学大学院 経営管理研究科 教授 長内 厚)







