ところが文明が発達して人が増え、人や物や、それに情報の行き来が活発になってくると、大店や名主さんならまだしも宛先が「×××村の田吾作さん」だけではいささか苦しくなってきます。もし今、「新宿の田中さんにこの手紙届けてくれる?」とだけ言われて封筒を手渡されたら途方にくれてしまいますよね。

 こうして、住所をどう表記するか、つまり住んでいる場所=とある場所というのをどう定義するか、このままじゃ困るからもう少し体系だてて考えてみようかという気運が醸成されてきたのだと言えるでしょう。

 見方を変えれば、近代的な住所の体系ができあがるまで、住所というのは人そのものだったとも言えます。「住所=人が住んでいる場所」なんだからある意味当たり前かもしれません。将軍様に届けてくれと言えばどこに届ければよいか日本全国誰でも分かるように(実際に手元に届けられるかはともかくとして)、人の知名度に応じて必要なだけの情報を付与したものが住所として機能していたと言えるでしょう。

「世田谷区フグ田サザエ様」でも
サザエさんの作者に手紙が届いた

『ヤバい日本の住所』書影ヤバい日本の住所』(河合太郎、幻冬舎)

「サザエさん」の作者の長谷川町子さんのところには「世田谷区 フグ田サザエ様」宛でも手紙が届いたと言われてますし、昭和の大女優である高峰秀子さんのところには戦時中、海外に出征した兵士からのファンレターが「日本国高峰秀子様」という宛先でたくさん届いたそうです。

 と、ここまで読んで、住所に欠かせない要件というのが1つあるのがお分かりになるでしょうか。それは「他の住所と区別がつくこと」です。別の言い方をすれば「とある(人の)場所を一意に特定できること」です。玉造郡に下野目村が2つあったらどっちに行っていいか分かりませんし、同姓同名の千葉岱蔵さんが他にもいたために、名主の千葉さんと書いて区別したのかもしれません。

 また千葉岱蔵さんは別の村にもいるかもしれません。住所には、迷わずそこに辿り着けるだけの情報が含まれている必要があり、ただ昔はそれが今よりシンプルでも事足りたということです。