京成を苦しめた
「成田空港」という大事業
そんな京成に訪れた転機が、飽和状態の羽田空港に代わる「新東京国際空港」の建設構想だった。運輸省は1962年に候補地選定に着手し、1965年に千葉県冨里村・八街町に内定するが、地元の同意を得ないまま決定したことで激しい反発を受ける。政府は翌年、一転して成田市三里塚付近に建設する方針を固めるが、またしても十分な説明は行われなかった。その後の10年以上にわたる「成田闘争」の始まりである。
京成は建設地が決定する以前から新空港に大きな期待を寄せていた。1965年のインタビューで当時の川崎千春社長は「空港ができれば、うちの路線が支線を作ることによってすぐに役立つ」として「バスの乗り入れとか、タクシーの営業、それからホテルなども造らなければならないと思う。とにかく、京成にとっては創業以来の大仕事になりますよ」と決意を述べている。
1968年12月に成田~成田空港間の延伸免許を申請すると、翌年11月に免許され、1970年11月に着工した。しかし、社運を賭けた空港線に対して国は冷たかった。前述のように空港アクセスは当初、成田新幹線を建設し、東京~成田空港間を約30分で接続する計画であり、京成が乗り入れる必要はないという反対論も根強かった。
それでも役割分担を唱え、認可されるが、ターミナルビルどころか、第1期工事(A滑走路・第1ターミナル)の工事区域への乗り入れも認められなかった。そこで第2期工事(B滑走路など拡張工事)の区域内で、第1ターミナルと将来の第2ターミナルの中間地点に駅を置き、バスで連絡する形となった。これが初代・成田空港駅である。
京成が追いやられた一方、本命の成田新幹線は沿線の反対運動で遅々として進まなかった。すると国は、京成に対し「何が何でも開港に間に合わすように」と催促。突貫工事で1972年11月に工事はほぼ完成し、空港特急「スカイライナー」の愛称も決定するが、成田空港の開港はさらに5年半後のことだった。
空港線の建設費は150億円、5年間の金利は年20億円にも上った。鉄道・バス部門の不振に加え、オイルショックで多角経営の大型投資が失敗に終わり、京成は経営危機に陥った。経常利益を計上し、累積赤字を解消したのは1980年代末のことである。時を同じくして浮上、実現したのが成田空港高速鉄道だ。ターミナルビル直下に乗り入れるスカイライナーは京成再建の象徴とも言える存在だった。
ターミナルに悩まされ続けてきた京成にとって、「初代」かつ「三代目」成田空港駅は安住の地となるか、そんな歴史に思いをはせながら東成田駅を見学してみてはいかがだろうか。







