1929年の株価大暴落をきっかけに、アメリカは銀行倒産や大量失業が相次ぐ世界恐慌へと突入した。では、絶望の広がる社会を立て直すため、政府は何をしたのか。1933年に大統領となったローズヴェルトは、「恐れるべきは恐怖そのもの」と国民に語りかけ、ニューディール政策を次々と実行した。アメリカ社会を大きく変えた、その改革の中身を『アメリカの中学生が学んでいる 14歳からのアメリカ史』から見ていく。(ダイヤモンド社書籍編集局)

Photo: Adobe Stock

第一次ニューディール政策

 ローズヴェルトは1期目の大統領就任演説で、「わたしたちが恐れるべき唯一のものは、恐怖そのものだ」と国民に語りかけたことはよく知られている。そして、その恐怖を打ち砕くことにすぐに取りかった。1933年3月4日に大統領に就任すると、ローズヴェルトは特別議会を招集した。最初の100日間と呼ばれるものだ。彼は銀行休業日(バンクホリデー)を制定し、緊急銀行法が可決されるまでの数日間、全国の銀行を閉鎖した。そして、経営が安定している銀行だけを再開させた。続いて、彼が国民に向けて何度もおこなうことになる「炉辺談話」と呼ばれるラジオ演説を初めておこない、この演説で彼は新たな銀行政策について説明し、国民の不安を和らげた。最初の100日間から1935年にかけて、ローズヴェルト大統領は第一次ニューディールを構成する政策を導入し、その一環として、次のような機関(どれも略語が使われたので「アルファベット局」と呼ばれた)が設立された。

●連邦緊急救済局(FERA)は、失業者を支援した。

農業調整局(AAA)は、農民に補助金を支給して、ときどき作物を廃棄させた。それで食料供給を減らし、価格を上げた(この政策は論争を引き起こした。多くの人々はまだ飢餓の問題を抱えていたのに、食べ物が廃棄されることになるからだ)。

●公共事業局(PWA)は、公共事業の資金援助をおこない、雇用を創出した。

●市民資源保全団(CCC)は、PWAに似ているけれど、資源の保全事業が中心だった。

●連邦預金保険公社(FDIC)は、銀行の預金に保険をかけ、銀行が破綻しても預金者がお金を失わないようにした。

テネシー川流域開発公社(TVA)は、新しいダムを建設してテネシー川流域に電力を供給し、周辺地域に雇用を生み出した。

●全国産業復興法(NIRA)は、労働基準(最低賃金や児童労働禁止など)を定めた。

証券取引委員会(SEC)は、株式市場を監督した。

第二次ニューディール

 1934年の中間選挙、そして1936年の大統領選挙において、国民は民主党とローズヴェルトを強く支持し、ローズヴェルトは圧勝した。ニューディールは、一部の保守派からは大統領の権力の社会主義的な乱用と思われ、一部のリベラル派(特にルイジアナ州選出のヒューイ=ロング上院議員)からは富の再分配が十分ではないと思われていたけれど、ほとんどの人々はさらなる支援を求めていた。大恐慌は相変わらず続いていた。

 そこでニューディールの効果が薄れ始めると、ローズヴェルトは第二次ニューディールを打ち出した。最初の政策に比べると、こんどの政策は人々の生活を支援するだけでなく、本格的な社会変革を生み出すことを目指していた。新設された雇用促進局(WPA)は公共事業局(PWA)とよく似ていたけれど、雇用の対象を芸術家や若者にまで広げた。1935年歳入法は富裕層への課税を引き上げ、ワグナー法は労働組合に公正な交渉をおこなう権利を保証した。そしてたぶん何よりも大事なのは、社会保障法(1935年8月)によって、アメリカに現代的な福祉制度が生まれたことだ。国民は働いているあいだに社会保障税をずっと支払い、その見返りとして、退職するか、働けなくなったときにお金をもらうしくみだ。

ダストボウル

 1930年代には、アメリカは大恐慌に加え、もうひとつの不運に見舞われた。1931年、グレートプレーンズで深刻な干ばつが発生したのだ。この地域では10年近くにわたりダストボウルが吹き荒れるようになった。長年にわたって農民が土地を切り開いたことで、表土にしっかりと根を張っているはずの草が根こそぎ失われた。草によって抑えられていた乾いた土は、風が吹くと吹き飛ばされ、砂嵐になった。特にオクラホマ州の農民は、住んでいる土地を離れ、カリフォルニアへの出稼ぎ労働者になった。貧困ライン以下の生活をするオクラホマの出身者たちは、オーキーと呼ばれるようになる。

労働者の力

 1935年、最高裁判所は、全国産業復興法(最低限の賃金水準を定めて労働者を守り、児童労働を禁止する法律)を、商業の違法な制限であるとして無効にした。議会はすぐにこれに対応し、全国労働関係法を可決した。これはワグナー法の名でも知られ、労働組合に一定の権利を保障した。アメリカ労働総同盟は引き続き力を保ち、新たに設立された産業別組合(組織)会議(CIO)は、女性や有色人種、非熟練工を受け入れ、組合員を増やした。労働組合は、工場内でおこなう座り込みストライキをするようになった。意外にも、労働組合や労働組織は、アメリカで労働力が過剰になっていた時期に成長したのだった。

ニューディール連合

 ローズヴェルト大統領のもうひとつの特徴は、新たな有権者を引きつける能力だった。特に1936年の大統領選挙では、多くのアフリカ系アメリカ人がローズヴェルトの進歩的な政策に引きつけられ、民主党に乗り換えた。アフリカ系アメリカ人が集団として、「リンカンの党」(現在の共和党の起源)から離れたのはこれが初めてだった。ローズヴェルトは、アフリカ系に影響を与える問題については、妻のエレノア=ローズヴェルト「黒人内閣」(黒人の助言者グループ)から助言をもらっていた。

 残念ながら、ローズヴェルトは南部民主党の白人層の支持を保つために、特に重要な政策のいくつかについては対象をあえて制限した。レッドライニングにより、アフリカ系の家族は連邦政府の住宅購入制度を利用するのが難しくなった。また、主にアフリカ系の労働者がしていた家庭内の仕事(料理人、メイド、運転手など)は、社会保障に加入する資格がなかった。

 一方で、エレノア=ローズヴェルトは国民生活で注目されるようになり、女性の権利向上の象徴になった。ローズヴェルト大統領は、史上初の女性閣僚として、フランシス=パーキンスを労働長官に任命した。

現実逃避

 大恐慌のあいだに生まれた芸術には、アメリカの暮らしを真剣に見つめたものもあったけれど(『怒りの葡萄』や、ウディ=ガスリーのフォークミュージックなど)、1930年代は現実逃避がいちばんさかんだった時期でもある。人々は映画を観たり、音楽やラジオを聴いたりして、日常生活から抜け出した。メロドラマ、ラジオドラマ、ビッグバンドやスウィングミュージック、そして『オズの魔法使い』や『キングコング』『風と共に去りぬ』といった映画は、多くのアメリカ人がこの10年間を乗り切る力になった。

大恐慌の終わり

 1937年、ニューディールはうまくいっているように見えた。ローズヴェルトは、大恐慌のあいだに膨らんでいた赤字を減らすときがきたと判断した。ただし、そうするには復興計画への支出を減らす必要があった。ところが、いざ実行に移したとき、彼は経済の安定性について見誤っていた。

 ローズヴェルトの支出を減らす判断は、貸付の制限とあいまって、国の経済を再び落ち込ませ、ローズヴェルト不況と呼ばれるようになる。これが完全に回復するのは、第二次世界大戦が始まってからのことだ。ニューディール政策のほとんどは、期限切れになるか、経済の回復に伴って中止されたけれど、社会保障や連邦預金保険公社、証券取引委員会など、いくつかの政策はいまでもアメリカ国民と連邦政府の関係において、中心的な役割を果たしている。