北は『岩倉邸行幸』を、べつの角度からもあらわそうとした。そのスケッチ(図26-2)もある。これを見ると、聖徳記念絵画館の絵ではわからなかったことが読みとれる。

図26-2 北蓮蔵『岩倉邸行幸』同書より転載 拡大画像表示

 天皇は病室の手前あたりから、歩む方向をかえている。縁側にそっては歩まず、まっすぐ病床へすすんでいった。靴履きのまま畳の部屋へ、ふみこんでいる。岩倉の寝床も畳の上にしかれていた。ただ、布団と畳のあいだには、絨氈がしきつめられていたようである。図26-1だけでは見えてこない補足的な情報として、書きとめる。

 こういう絵を、歴史の記録として信じられるかどうか。あやぶむ人は多かろう。ただ、聖徳記念絵画館の絵は、明治天皇の時代を後世へつたえるために制作された。同館じしんの解説にも、こうある。「史実ニ依リ調査シ現代画伯ノ謹写セル所ナリ」、と(『聖徳記念絵画館 壁画解説』1933年)。データとしての信頼性は高いと考える。

 山県有朋は、大日本帝国陸軍の基礎をかためた人である。終生、陸軍閥の長として、政局ににらみをきかせたことでも知られている。1909年の5月には、自宅の椿山荘へ皇太子をまねいた。のちの大正天皇に、自慢の家と庭を見せている。

 図26-3は皇太子を、椿山荘へつどう山県派の面々がかこんでとった記念写真である。庭とのさかいにある沓脱ぎ石へ足をおろした男たちは、みな靴をはいていた。そして、そのことじたいは、うなずける。沓脱ぎ石は、そもそもそういう場にほかならない。だが、床上でも靴のままということになれば、話はちがう。日本的な生活習慣からは逸脱していると、言わざるをえなくなる。