「薩藩は奸賊なり。速に討たざるべからず。大坂の因循して時機を逸するは、在坂の有司孰れも臆病者なるが故なり。関東より端を開きて其眼を覚まさしむるに若かず」(注1)
との主張だが、慎重論もあった。ところが23日夜、佐土原藩(薩摩支藩)の一隊が三田の庄内藩屯所に発砲して死傷者が出る。つづいて江戸城二の丸が炎上したが、これも浪士らのしわざとされた。
ここに至り25日夜、旧幕府に命じられた庄内藩はじめ上山・前橋・西尾・鯖江各藩が、薩摩藩と支藩の佐土原藩邸を攻撃したため50人ほどの死者、多数の負傷者が出た。忠順は25日の日記に次のように記録し、「召捕」が「戦争」になったと言う。
「先頃中より市中所々え押し込み、手荒の所業致し候者ども、何れも薩州三田上屋敷、あるいは小山嶋沢淡路守屋敷内にこれ有る趣は、この程野州にて召し捕り候者より白状致し、ことに内探の趣も符合候につき、今日陸軍並びに酒井左衛門尉(庄内藩)人数等御差し向けにて、それぞれ御召捕りのところ、ただちに戦争と相成り、昼迄にそれぞれ打取り、召捕り相済み候」(注2)
事件の知らせが届くや、大坂城の旧幕軍は明治元年(慶応4年・1868)1月2日、薩摩の陰謀を非難した「討薩檄」を掲げ、天皇に訴えるべく京都に向けて進軍を開始した。この時のことを後年、慶喜は「それ(討薩檄)は確か見たようだったが、もうあの時分勢い仕方ない…。とうてい仕方ないので、実は打棄らかしておいた」(注3)と回顧している。家康の再来と薩長に恐れられた慶喜だったが、一旦逆境に立たされればこのありさまだった。
薩長の三倍の兵を持ちながら
慶喜はなぜ敗走したのか
旧幕軍が動いたとの知らせが京都に達するや、新政権の大久保利通らは討伐を主張し、採決される。
二手に分かれた旧幕軍1万5000人は明治元年(1868)1月3日午後5時頃、京都南郊、鳥羽・伏見街道を護る薩摩軍と武力衝突した。戊辰戦争「鳥羽・伏見の戦い」の始まりである。薩長軍は5000人ほどだが、この日は一進一退のまま勝敗は明らかにならなかった。
注2 山田武麿・萩原進編『小栗日記』〈『群馬県史料集』第7巻〉、群馬県文化事業振興会、1972年
注3 徳川慶喜談、渋沢栄一編・大久保利謙校訂『昔夢会筆記』、平凡社、1966年







